◎ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 新井由己 ■はじめに 16日夜から27日朝まで、本当に“修業”の日々でした(汗。 実はヴィパッサナーと呼ばれる瞑想方法にも流派があり、 最初に期待していたものはスリランカ系のものらしく、 修業したのはミャンマー系のずっと座っているものでした。 でも、結果的にはいいものに出会ったと思います。 昨日の午後に筆記具が使えるようになったので、 一気に10日分の記憶と体験を箇条書きにして、少し一段落しました。 あとはこれを元に日記をまとめる予定です。 1日の修業時間が17時間なので、ほぼ倍の日数いた感覚です。 その間、頭と体をフル回転し続けました。 かなりの長文になると思われますが、 自分のためなので、みなさんは適当に読み進めてください。 ゴータマ・シッダッタはあらゆる修業や瞑想方法を試したあとでも、 自分の中に心のにごり(苦悩)が消えないことに気づきました。 そして、その苦しみから解放されるためにはどうすればいいのか考え続け、 ヴィパッサナー(あるがままに観察する)と呼ばれる瞑想方法を再発見しました。 そして、このヴィパッサナーによってブッダ(悟った人)となったのです。 現在、ブッダの教えは主に言葉で語り継がれていますが、 その本質はヴィパッサナー瞑想であることがよくわかりました。 これまでは、本を読んだり映画を見たりしながら外から知識を得てきましたが、 今回の瞑想方法はまったく逆のアプローチでした。 つまり自分の体を観察することからすべてのことを理解していくのです。 頭で考えたことに、体が答えを出してくれる。 その繰り返しでした。  もう、本なんて読まなくてもいい。 本を読んで考えることが好きだった僕をそんな気持ちにさせるほどの、 人生の価値観を変える衝撃的な体験でした。 「心と体を癒す仕事」で「お金のためではなく人のため」というウマ師の言葉。 「今はとにかく自分を見つめる時期」という守護霊さんのアドバイス。 あらためて気づいたのですが、僕の守護霊さんは、 王様の地位を捨てて宗教に帰依して民衆のために生きた人です。 まるでゴータマ・シッダッタのようではありませんか。 10日間の修業で、心の中にあったわだかまりがひとつ消えるのを実感しました。 それが何かという記憶はわかりませんでしたが、いずれ気がつくでしょう。 過去に蓄積した心の苦しみを浄化し、新たな苦しみの種をまかないこと。 それこそが、心の苦しみから解放されるヴィパッサナーでした。 これまでの座右の銘は 「思うがままに、望むがままに、ただ心ゆたかに歩きたい」でしたが、 これからは、 「平静な心で、今を生きる」にしようと思います。 ■9月16日(水)  16時半ごろ、JR外房線の茂原駅に降り立つ。バスターミナルに出て、いすみシャトルバス乗り場を探すと、尼さんの姿をはじめ、大荷物を持った人たちが目に入った。これから、ブッダの瞑想法といわれるヴィパッサナー瞑想の修業に向かう人たちだ。  2006年秋から翌春にかけて四国のお遍路を歩き、それをきっかけに「信仰とは何か?」という疑問が続いていた。神の存在を盲目的に信仰し、いつか神様や仏さまが自分を救ってくれると依存することなく、どこかの教団に財産を搾取されることもなく、自分自身の得を積むために、通りすがりのお遍路さんにお接待を行なう四国の人たち。  信仰とは、自分の中にあるものではないだろうか?  そんなことを考えながら、仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教などの関連書を読みあさっていた。そして今年の7月に、インド手相占いのウマ師に鑑定してもらうことになった。43歳になったあとは「スピリチュアルな活動をすることでしか幸せは得られない」と言われるが、いきなりそんなことを言われても、何をしていいのかわからない。  スピリチュアルや心理学関係の本まで範囲を広げるうちに、『日々是修業−現代人のための仏教100話』(佐々木閑/ちくま新書)で、ブッダの原始仏教に出会った。ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み。シッダルタはサンスクリット読み)は「人が生きるこの世界は、どのように成り立っているのか」という問題を考え続け、その答えにたどり着いてブッダ(悟った人)になった。 「この世には、超越的な力を持つ絶対者など存在しない。すべては、原因と結果の間に成り立つ法則性で動いている。私たち自身の肉体も心も、その法則性に沿って存在しているのだ。だから、生きる苦しみを消し去るためには、外の絶対者にお願いしても意味がない。世の法則性を正しく知ったうえで、それを利用したかたちで自分の心を鍛練していく、それが苦しみをなくす唯一の道だ」(『日々是修業−現代人のための仏教100話』より)  ゴータマ・シッダッタが悟りを開くために使った修業方法が、ヴィパッサナー瞑想である。じっと座って精神を集中する瞑想は苦手だと思っていたら、そのあとで入手した『人生の流れを変える瞑想クイック・マニュアル −心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門』(地橋秀雄/春秋社)によれば、歩いたり、家事をしたりといった日常の動きのなかでも瞑想ができると書いてある。これならできるかもしれない−−。そう思った僕は、すぐにインターネットを検索し、何も考えずに日本ヴィパッサナー協会の10日間コースに申し込んでいた。  ヴィパッサナーは、インドの最も古い瞑想法のひとつだという。この瞑想法は2500年以上も昔、インドで、人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されてきた。パーリ語で、ヴィは「ありのままに・明瞭に・客観的に」、パッサナーは「観察する・観る・心の目で見る」という意味。つまり、「ものごとをありのままに観察する」のが、ヴィパッサナー瞑想ということになる。  茂原駅からシャトルバスに乗って約20分、工業団地入り口でバスを降りる。バスに乗っていた約12名の参加者は男女半々くらい。なかには何度か瞑想コースを体験している人もいるようだ。不安な心持ちで迎えの車を待ち、2台の車に分乗してコース会場に向かう。  バス停から車で数分走り、ヴィパッサナー瞑想センター「ダンマーディッチャ」(パーリ語のダンマと太陽を意味するアーディッチャを繋げた造語)に到着。天井の高い大きな建物があり、一部はキッチンになっていて、残りが男女別の食堂になっているようだ。広々とした草地にはテントが並び、手前が男性用テント、奥のほうが女性用らしい。男女各15張りくらいあるだろうか?  S.N. ゴエンカ氏が指導するヴィパッサナー協会は世界各地あり、完全な非営利のボランティア精神で運営されている。日本では1983年に設立され、主に京都の瞑想センター「ダンマバーヌ」でコースが行なわれていた。今回訪れたダンマーディッチャでのコース開催はこれで2度目らしく、建物ができるまでは、テント宿泊のスタイルで行なわれるそうだ。  受け付けを済ませたあと各自のテントが割り振られる。ドーム型テントの上にタープ(屋根テント)もかけられ、テントの床には厚い発泡スチロールが敷いてあるので、快適なキャンプ生活が送れそうだ。  19時半ごろに簡単な夕食を済ませたあと、瞑想ホールで最初のレッスンが始まった。クッションの上に名前が書いてある紙が置いてあり、自分の席が決められている。これから毎日、同じ場所に座ることになる。  主な指導は、S.N. ゴエンカ氏の英語と日本語通訳の声がMDで流れるように進む。最初は参加者の心得や瞑想することの意義、10日間の過ごし方の注意点などを聞く。明日からは、朝4時に起きて、夜9時半に寝る生活が始まる。瞑想のコース中は、次の五戒を厳格に守らなければならない。  生き物を殺さない  盗みを働かない  性行為を行なわない  嘘や悪い言葉を使わない  酒・麻薬の類を摂らない  以前にコースを取った人は次の三戒も守ることが求められる。  正午以降食物を摂らない  踊りや歌などの娯楽を避け、装身具などで身を飾らない  ぜいたくな高い寝台で眠らない  またコース開始から10日目の午前10時まで、「聖なる沈黙」を守らなければならない。聖なる沈黙とは、身体・言語・精神の沈黙を指し、身体によるジェスチャー、目を合わせること、書くこと、外部との連絡をとることなど、いかなるコミュニケーションも禁じられる。瞑想はただ独りで行なうのだ。もちろん男女問わず体の接触も禁じられ、コース中は男女エリアは区別されている。  そして、呼吸を使って精神を集中するアーナーパーナ瞑想の方法を教えられた。鼻の穴に入ってくる息と出て行く息に意識を向ける。ところがすぐに考え事が始まってしまい、なかなか鼻の呼吸に集中できない。  人間の体は、それぞれ自分の体だと思っているが、手足などは意識で動かせても、心臓や臓器は勝手に働いている。つまり、体の多くの部分が自分のものではないのである。もし自分のものとするならば、しばらく心臓を止めることができるだろう。しわが増えるのが嫌だとか、白髪にならないようにとか、肉体さえもコントロールできるはずだ。そういう意味で呼吸も無意識に動いている体の機能だが、唯一、意識でコントロールできるのである。呼吸を観察することで、体と心の反応を確かめて、自分の心に近づこうという考え方らしい。  1時間ほどで瞑想時間は終わり、21時過ぎに就寝。明日から本格的なコースが始まる。はたしてどんな10日間が待っているのだろうか? ■9月17日(木)  朝の4時、金属製のカーンと響く鐘の音で目が覚める。これまでの日常生活では、ともすればこれから寝る時間である。周囲の音が気にならないように耳栓をしていたので起きられるか心配だったが、どうやら鐘の音は聞こえるようである。  トイレに向かうときに、洗面台で歯磨きをしていた人に思わず「おはようございます」と声をかけそうになったが、今は「聖なる沈黙」が指示されているため、声をかけることも目を合わせることもしてはいけない。感じの悪い人に思われそうな気がしたが、向こうも同じようなことを考えているのかもしれない。  周囲はまだ真っ暗で、空には星空が広がっている。4時半に瞑想ホールに入る。何をすればいいのか指導がないので、昨夜のアーナーパーナ瞑想にトライする。あいかわらず呼吸に集中できず、考え事ばかりが頭をかけめぐる。そもそも、座禅のようにじっと座って精神集中をすることが嫌でここに来たので、すぐに足は痛くなるし、空想が止まらない。  6時半に鐘の音が響き、しずしずと食堂に向かう。朝食はおかゆやパンなどで、僕はパンを焼いてコーヒーを飲む。スタッフから何か指示があるわけではなく、掲示板に貼ってあるスケジュールを確認する。朝食後は8時まで休憩時間なので、テントに戻って横になり、体を休める。  8時から9時の間はグループ瞑想の時間で、全員が瞑想ホールに集まらなければいけない。ゴエンカ氏のパーリ語の詠唱が少しあり、そのあとで英語と日本語の指導が入る。昨夜と同じように、鼻から入ってくる息と出て行く息に神経を集中しなさいと言われる。自分の呼吸に意識を集中するのがこれほど難しいと思わなかった。  少しの休憩を挟み、9時から11時まで同じように座って呼吸を観察する。朝からじっと座りっぱなしなので、何度も足を組み替え、目を開けて時計を見てしまうが、ほかの人は仏像のようにじっと動かない。あまりじろじろ見ては行けないので、また呼吸に集中しようと試みる。けれども足が痛く、瞑想ならぬ心は“迷走”するばかりだ。  11時に鐘が鳴り、昼食の時間。言葉を交わせないし、ジェスチャーもしてはいけないので、目を合わせないように、体が触れないように気をつけながら、どんなメニューがあり、皿が必要か丼が必要かを考えてお盆に食器をセットする。基本的には、ご飯のほかに、おかずが一品。梅干しや黒豆味噌などの常備メニューはあるものの、質素な食事である。だからといって、がつがつ食べている人は少なく、みんな控えめの量を盛っている。昨夜は簡単な夕食があったが、スケジュールに夕食時間はなく、ティータイムがあるのみ。空腹に耐えられるか心配なので、たくさん食べておいたほうがいいかと思ってしまう。とりあえずいつもどおりの量に抑え、お腹の様子を見ながら食べる量を考えていくことにする。  昼食のあとで休憩して、13時から14時15分まで瞑想する。空想僻はあいかわらずだが、そのうち考え事がなくなってきたのか、気がつくと呼吸に集中している時間が多くなっていた。すると、おもしろいことに気づいた。午前中は右の穴で呼吸していたのが、午後は左の穴で呼吸している。考えてみれば当たり前なのだが、そういう違いを意識することなく、ふだんは呼吸しているのだった。  14時半からグループ瞑想。今度は両方の鼻の穴で呼吸をしている。風邪をひいたときに、右の鼻で呼吸したいのに詰まってしまい苦しく感じたことはないだろうか? 左側なら呼吸できるのに、呼吸したいほうの穴が詰まっていることもある。いったいなぜ、鼻の穴の左右が切り替わっているのだろうか? また切り替わるのはいつどのようなタイミングなのだろうか? 観察の対象ができたのでより集中できるようになった。左右の穴が切り替わるときは、エアコンの風を振り分けるルーバーが作動するように、ゆっくりとゆっくりと移動し、両方の穴で呼吸している時間を経たのち、反対側の呼吸に進むようだった。  1時間のグループ瞑想が終わるものの、引き続きホールでの瞑想が続く。呼吸を観察して気づいたのは、呼吸にはムラがあるということだった。吸うときは直線的にすうーっと、吐くときは波打つようにふぅーっ、ふぅーっという感じが多い。また、空気の量も、吸うときは少なくて吐くときは多いときがあれば、たっぷり吸って少ししか吐き出さないときもある。体に必要な酸素の量は一定で、呼吸は安定していると思っていたのに、人間の体というのは不思議なものである。  17時からティータイム。僕を含めた新しい生徒は飲み物のほかに果物が用意されているが、古い生徒はハーブティーなどしか飲むことが許されていない。バナナを1本、リンゴを1個食べてコーヒーを飲む。  18時から3回目のグループ瞑想があり、その後、1時間半の日本語の講話を聞く。このときは足を組んで座らなくてもいいようなので助かった。  一日目は大変だったでしょう。  なぜ、座ることがこんなに難しいのだろう、  なぜ、こんなに不快な思いをするのだろう、と感じた人もいることでしょう。  声の主は、優しい口調で語りかける。呼吸に意識をおきながら、何かの言葉や神様の名前を唱えたり、物のイメージを思い描くことができれば、心の集中はもっと優しかったはずだという。けれども、ここではそれは許されていない。あくまでも、ただ自然な呼吸を観察することが求められる。それは心の集中が目的ではなく、その集中力をもって心の浄化を目的とするものだから。  心は次から次へと常にさまよう習性を持っているという。今日はそれを身をもって経験したわけだが、心は呼吸であれ何であれ、ひとつの対象に留まるのを嫌う性質がある。心は常に過去のことや未来のことを考え、現在を生きることができない。この話を聞いて、妙に納得してしまった。脈絡なく次から次へと妄想が始まり、しかもそのひとつずつが完結しないままということも少なくない。そんな人が現実の社会にいたら、それは狂っていると思われてしまう。  また、楽しいことを考えていることもあれば、足の痛みばかり気に取られてしまうこともある。楽しいことは「渇望」へ、足の痛みは「嫌悪」へ、そのどちらでもない「無知」へと、心はこの性質に覆われている。そして、心の苦しみのすべてはこの3つの要素から生まれるという。  この瞑想法の最終目的は、  心の否定的な面を少しずつ取り除いて行くことによって心を浄化し、  苦悩から自由になることです。  これは、心の奥底に隠されているさまざまな心の汚濁を掘り起こし、  取り除くために行なう心の大手術です。  みなさんが始めた呼吸の観察は、  心の集中ばかりでなく、浄化も行ないます。  息の流れに集中できた瞬間がほんの一瞬であっても、  そのような瞬間こそが心の習性を変えるのです。  息が鼻を出入りしていることには何の幻想もなく、  もっと多くの息が欲しいと考えることも、  息に対する嫌悪感もありません。  考え事ばかり思い浮かんでしまう状態から、呼吸に集中して観察することができるようになり、自分の意外な面を発見しておもしろくなってきた。けれども、やはりじっと座っているのは苦手である。最初の3日は呼吸法をやることはどこかで読んでいたので、それまでは我慢が必要なようだ。  講話のあと少しの休憩を挟んで、30分ほど瞑想する。このとき、翌日の課題が出される。今度は上唇を底辺として鼻までの三角形の部分に起こる感覚を観察しなさいとのことだった。けれども鼻の穴の出入り口に空気が触る感覚があるだけで、それ以外はまったくわからなかった。  瞑想時間が終わり、質問がなければ休んでよいとのことなので、テントに戻って寝袋に入る。今日は新しい発見があった。明日はどんなことに気づくのだろうか? ■9月18日(金)  朝4時に起きて、4時半から瞑想開始。昨夜の指示どおり、上唇を底辺として鼻までの三角形の部分に起こる感覚を観察するが、まったく何もわからない。  瞑想ホール内は男女別に分かれているが、エリアが分かれているだけで、男女間に壁はない。いちばん前にアシスタントティーチャー(AT、ここでは先生と書くことにする)の座る場所が少し高くなっており、その両側にスタッフ(奉仕者)が数名、先生のほうを向くように座っている。生徒は先生のほうを向くように座り、古い生徒が前のほう、新しい生徒が後ろという配置のようだ。ここダンマーディッチャの定員は男女各15名で、そこに奉仕のスタッフ数名が加わる。  あまり集中できないまま、しだいに明るくなってきた。6時少し前に先生がやって来て、ゴエンカ氏の詠唱が流れる。パーリ語の発音が聞き取りにくく、何度聞いても「た〜か〜さ〜ご〜や〜」と能の節回しを思い出してしまう。最後に「パッヴァトゥ、サーバァ、マンガラン」(生きとし生けるものが幸せでありますように)と3回唱え、古い生徒が「サードゥ、サードゥ、サードゥ」(よくおっしゃいました)と返礼して、朝の瞑想が終わった。  6時半から朝食をとり、昨日と同じようにテントで休む。8時からグループ瞑想。同じように、上唇を底辺として鼻までの三角形の部分に起こる感覚を観察しなさいと言われる。息が鼻の下に当たる感覚とか、鼻の奥がむずむずした感覚とか、いくつか例を挙げられるが、そのどれもまったく感じない。9時になって休憩を挟み、11時まで瞑想が続く。感覚はまったく感じられないが、呼吸への集中はだいぶできるようになった。  朝のグループ瞑想のときに、心がどこかに行ってしまう時間が3分以内であれば、特に問題ないと言っていた。5分以上も空想しているときは、呼吸を少し強めにして戻るきっかけを作る。先生は「気がついたときにしか戻れませんから」と言う。けれども、集中はできるのだが、呼吸を強くしても皮膚感覚は何もない。  昼食と休憩のあと、13時から再び瞑想が始まる。ほかの人たちはどんな感覚を感じているのだろうか? あまり集中できなくなったので、一度テントに戻って、鼻息を思いきり強くして試してみる。それでも皮膚感覚は何もない。指や手を鼻の近くに持っていくと風の流れは感じるのだが……。  14時半からのグループ瞑想が終わると、そのあとの瞑想時間に先生の前に呼ばれて、呼吸の流れを感じるか、三角形の部分に何か感覚を感じるか、心の平静さはどうかなどを確認される。新しい生徒は僕を含めて男性は4名だったが、すでに昨日ひとり帰ってしまった。話ができないのでほかの人がどういう状態なのか、このときに少しわかることになる。男性側は同じように感覚はほとんどないようだ。ちょっとほっとする。一方、女性の新しい生徒たちは、鼻の入り口が熱くなったとか、上唇に風が当たる感じがあるとか、入ってくる息は冷たく出て行く息は温かいとか、鼻の奥がむずむずするなど、それぞれの感覚があるようだ。  17時のティータイムでは、同じようにパナナとリンゴを食べる。シャワーを浴びてすっきりしたあと、18時からのグループ瞑想に入る。ゴエンカ氏はあいかわらず、入ってくる、出て行く、入ってくる、出て行く……自然な息の流れを感じ、ピリピリした感覚や温かい空気の流れを感じとりなさいと言っている。「もし感覚を何も感じなくても、落ち込むことなく、負けたような気持ちになることなく、ほほえんで続けなさい」と言うが、こんなに集中しても感覚を何も感じない自分の鈍感さが嫌になってしまう。  夜のグループ瞑想が終わり、19時から講話が始まった。  二日目が終わりました。  一日目よりは少しましだったでしょう。  けれども、まだまだ大変です。  野生の牛や象のように、心は野放し状態で落ち着きがありません。  しかし、訓練しだいでは役に立つようになります。  私たちの心も、訓練することで役に立つのです。  ブッダが説いた法(ダンマ)は、次のように簡潔に説明できる。  例えば、ほかの人のやすらぎと和を妨げる行ないは、悪い行ない。ほかの人を助ける、ほかの人にやすらぎと和をもたらす行ないは、善い行ない。これが、悟った者すべての教えである。(ダンマパダ 一八三)  このダンマは八つの聖なる道「八聖道」と呼ばれ、この道を歩む人はだれでも、清らかな心の持ち主、聖者となれるという。八聖道は大きく分けて、シーラ(道徳律)、サマーデイ(集中力、心のコントロール)、パンニャー(智慧、心を浄化する洞察力)に分けられる。シーラとサマーディだけでは心の奥深くにある汚れを取り除くことはできないらしい。最後のパンニャーを培う修業(ヴィパッサナー)によって、心を完全に浄化するというのだ。  八聖道のうち、正しい言葉、正しい行為、正しい生計(仕事)がシーラ(道徳律)に入る。ほかの人を傷つけたり、ほかの人をそそのかすような仕事は正しくないということになる。お酒を飲んではいけない戒律があるので、その考え方でいくと酒屋さんもダメということになる。生き物を殺してはいけないという戒律があるので、肉屋さんもダメである。  そして、正しい努力、正しい知覚(気づき)、正しい集中力の三つがサマーディ(集中力、心のコントロール)に入る。正しく修業を続けていると、意識した呼吸によって精神集中でき、自然な肉体感覚を連続的に感じ取れるようになるそうだ。  みなさんは、五つの戒律を守るシーラの修行によって  しっかりとした土台を固めました。  また、渇望や嫌悪を抱くことなく、  この瞬間の真実に集中することによって、サマーデイを育んでいます。  さらに心を鋭くするために、修行を続けなさい。  そうすることによって、四日目にパンニャー(智慧)の領域に入り、  心の深い部分に触れるときが来るでしょう。  講話が終わり、最後の瞑想で翌日の課題が出される。今度は意識する範囲をさらに狭くし、鼻の穴と上唇の間の小さな三角形にする。けれども大きな三角形でも何も感じないのに、小さくするということさえ、意識をうまくコントロールできない。昨日の喜びも束の間、今日は感覚を感じられないことに落ち込み続けた一日だった。こんな調子でこの先ついていけるのだろうか。  21時に瞑想が終わり、そそくさとテントに戻って寝る。 ■9月19日(土)  修業3日目に入った。いつものように4時に起きて、4時半から瞑想スタート。意識を鼻の辺りに集中させるが、やはり感覚は何も感じない。眠気はそうでもないのだが、足が痛くてすぐに組み替えたりして、じっとしているのが苦痛になってきた。半分くらいの時間は、膝を抱えてうずくまっている状態が続く。コオロギなどの虫の音が響くなか、静かに夜が明けてゆく。その一方、薄暗い瞑想ホールにいる自分の心は闇に向かっているようにどんよりしている。6時ごろから詠唱が始まり、生徒が唱える「サードゥー」の声を聞いて朝食に向かう。  朝のメニューはだいたい決まってきた。はちみつトーストを2〜3枚とコーヒーが基本で、プルーンやバナナを煮たものがあれば、それを皿に少しとる。おかゆを一口よそってみたら、体が暖まって意外とよかった。  8時からのグループ瞑想も、あまり集中が続かない。鼻の穴と上唇の間の小さな三角形に意識を置くが、鼻の入り口にかすかに空気の出入りを感じるくらいだ。感覚をまったく感じないことに落ち込み、どんどんネガティブな気持ちになってくる。  昨日の段階で、左隣にいた人も帰ってしまったようだ。1日目にひとり帰り、2日目に二人帰り、次は自分の番かと思ってしまう。ただ、最初にこの地に10日間留まるという誓約書を書いているし、途中で帰っても空いているスケジュールでやることもなく、逃げ帰ったという事実だけが残り、もう二度とこの瞑想法にチャレンジすることもないだろう。自分は呼吸を使った瞑想法を習得したいのではなく、日常の中でできるヴィパッサナー瞑想を体験するためにやって来たのだ。鼻の下の感覚を感じなければ、その先のヴィパッサナーに進んでも何も得られないかもしれないが、とにかくどんなことをやるのか、落ちこぼれても最後までいることにしよう。  グループ瞑想が終わり、しばらく瞑想していたが、集中できないうえ、感覚を感じないとネガティブな感情が押し寄せるので、やればやるほどダメだと思い、テントに戻って休むことにした。グループ瞑想の時間は全員が瞑想ホールにいなければいけないし、途中でトイレなどに出ることも許されていないが、それ以外の瞑想時間はホールに留まってもいいし、各自のテントで瞑想を続けてもいいようだ。ただ、ほとんどの生徒がホールで瞑想を続けている。  テントに戻って、また鼻息を強くして感覚を探してみるが、昨日と同じように変わりがない。鼻の穴から出ていく空気は上唇には当たらずに直接出ているような気がするが、手で鼻を覆ってみても、手のひらの皮膚に当たる感覚はあっても、顔の皮膚に当たる感覚はない。こうなると、風は当たっているはずなのに、感覚を感じていないということになる。  11時から昼食の時間。食事をするときは窓側にあるカウンターに座り、隣の人と目を合わせることもなく、ただじっと外を景色を眺めている。ここに来てからずいぶん時間が経ったと思っていたのだが、「第3日目」という表示を見てがく然とする。感覚的にはもっと長い日数ここにいる感じだ。よく考えてみると、朝4時の起床時間から夜9時半の消灯まで、17時間半もある。午前中だけでも8時間なので、通常の感覚であれば1日で2日分の時間をこの瞑想に当てていることになる。そうなると3日目のお昼は丸5日を終えたころで、自分の感覚と一致する。残り7日(実質14日)は、果てしない道のりに思えた。  13時から14時15分まで瞑想したあと、14時半からグループ瞑想が始まる。鼻の下に意識を集中していると、目の前に鼻の頭のイメージができてしまい、それをじっと観察しているようになってしまう。意識の集中が思い浮かべたイメージに向かってしまい、自分の皮膚感覚にまったくつながらない。どうやったら自分の内側に意識を向けることができるのだろうか?  15時半からの瞑想時間は30分ほどで挫折。テントに戻って横になる。17時のティータイムと休憩のあと、18時からグループ瞑想が始まる。とにかくもう、ただ座っているだけの時間が過ぎてゆく。ゴエンカ氏は、感覚を何も感じなくても問題ないと言うが、感覚を感じない自分の引け目ばかりが頭に浮かぶ。  19時から講話が始まった。瞑想の修業はつらい時間だが、この講話はブッダの教えをわかりやすく伝えてくれるし、一日の終わりに気を紛らわせてくれる。  三日目が終わりました。  明日の午後には、八聖道の第三の領域であるパンニャーに入ります。  パンニャー(智慧)には、八聖道のうち、正しい思考と正しい理解が含まれる。また智慧には三つの成長段階があるという。最初はだれかの話を聞いたり、本を読んだりして得る一般的な智恵、知識。次に、得た知識を自分の頭で考えて理解する段階。ブッダはさまざまな宗教や哲学を学び、ありとあらゆる修業を行なったものの、そのすべてが頭で理解する段階までしか到達できないことに気づいた。そして自分自身の経験、体で理解する本物の智慧を得る方法、ヴィパッサナーにたどり着いたのだ。  例えば、病気になって医者に行ったときに、薬の処方せんを書いてもらう。医者を信頼しているので、家に帰ってから処方せんの言葉を読み返してみた。これが第一段階。次に、処方せんに何が書いてあるか詳しく説明してもらう。なぜその薬が必要なのか、どのように作用するのかを聞いて理解する。これが第二段階。最後に、その薬を飲んで、病気が治る。薬を飲まないで、頭で理解したままでは解決にならないのである。  みなさんはこのコースに、薬を飲むためにやってきました。  自分自身の智慧を育むためにやってきました。  薬を飲みなさい。自身で体験しなさい。  そして、真実を理解するのです。  仏教用語に「諸行無常」という言葉がある。この世にあるものすべては常に変化するものであり、一瞬といえども同じものは存在しないという意味だ。お遍路を歩いていたときは般若心経を何度も唱えていたので、その意味はなんとなく理解していたが、実感はあまりなかった。  例えば電球は燃焼と消滅を繰り返しているのに、それがすごいスピードで連続しているために消えていることがわからない。川の流れを眺めているときも、水はどんどん流れているので同じ瞬間はないということも忘れてしまう。  ゴータマ・シッダッダは、ありとあらゆるものが生まれては消えていくという事実を、自分の体を観察することで突き止めたという。原子よりもっと小さな八つの素粒子があり、物質を形成する土、水、火、空気の四つの要素のうち、二つの特徴を持ったものが現れる。最近になって科学でそれが証明されたようだが、ゴータマはヴィパッサナー瞑想を通して、この素粒子のさざ波が生まれては消えていくという事実を解明したのである。  人はだれでも、私の体、私の考え方というように自我を持っている。ところが、自分の体だと思っているのに、自分の意志や願いとはかかわりなく、たえず変化し、衰えていく。自然の法則に従って生きている体に、自分の意識が間借りしていると考えたほうがいいのかもしれない。  空にはさまざまな風が吹く。東から西へ、北から南へ。ほこりっぽい風があれば、きれいな風もあり、冷たい風、熱い風、激しい風、そよ風というように、いろいろな風が吹く。空を見上げれば、すべては生まれて消えていく無常の世界がよくわかる。  「諸行無常」が理解できるようになると、自分の体というものは存在しない「無我の境地」に達する。ところが、たえず変化していて支配することのできないものを、つかまえていよう、放さないようにしようとするとき、苦しみが始まる。  講話のあとの瞑想で、これまで何も感覚を感じない人がいたら、30秒ほど息を止めてみなさいという指導があった。試しにやってみると、上唇の端のほうがピクピクと動くのがわかった。これが、これまで感じたことがなかった感覚なのかと素直に喜ぶが、考えてみれば苦しくなればどこかがピクピク反応してもおかしくない。  明日の午後、いよいよヴィパッサナーの修業が始まる。皮膚感覚が得られないままでいいのかわからないが、僕にとってこれからが本番だ。期待と不安を胸に抱きつつ、21時過ぎに眠りについた。 ■9月20日(日)  修業が4日目に入り、今日の午後はいよいよヴィパッサナーの修業が始まる。朝の瞑想時間に30秒ほど呼吸を止めてみることを繰り返してみたが、昨夜のような感覚はなくなってしまった。体が驚くのをやめてしまったのだろうか。隣にいる新しい生徒(僕とこの二人だけになった)も同じように感じないらしく、呼吸を止めている様子がよくわかる。  朝食後、敷地の端のほうの林に近いところをぐるぐる歩きながら、頭を整理しておく。修業中はメモをとることができないので、すべて記憶に頼るしかない。以前読んだ『もの忘れを防ぐ 記憶力を伸ばす』(夏谷隆治著、池谷裕二監修/三修社)には、人間の脳は忘れるようにできていて、覚えようという意識がなければ覚えられないと書いてあった。  目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体に触れるもの、それらをすべて記憶していたら、たちまち脳はパンクしてしまう。だから、必要なもの意外は忘れる(覚えない)ようになっているのである。「記憶」と「感情」は深い関係があり、何かに感動した経験はなかなか忘れないし、おいしいものを食べればその店を人に勧めたくなる。  同書でいちばん印象的だったのは、記憶の鍵は脳の神経回路(シナプス)がポイントという話だった。シナプスは簡単に言えば検索エンジンである。頭のどこかに記憶したものでも、それを常に出したりしまったりしないと、検索エンジンからもれてしまい、「あれなんだっけ」と思い出せずに悔しい気分になる。今回の瞑想のように強烈は体験は覚えやすいが、夜の講話は特に難しい。  草原をぐるぐると散歩しながら、1日目はどういう指導があって、何を考え、何を試し、夜の話で何が印象的だったかを、キーワードだけでもいいから覚えておく。そして3日目が終わったら、1日目から3日目までを順に思い出すようにしてみた。  グループ瞑想のあとは、集中できないときはぼうっとしていたり、いろいろなことを考えながら、ほかの生徒の様子などをちらちら眺めていた。あいかわらず、みんなじっと座っているので、それを見てまた自分のふがいなさを恥じる。そんなときはここにいてもだめだと思い、テントに戻って体と心を休めることにした。  昼食後、同じように瞑想時間をさぼりつつ、グループ瞑想の時間をやり過ごす。そして15時から、念願のヴィパッサナーの指導が始まる。これから2時間、トイレに行くことができないというので、各自すませてからホールに戻ってくる。  ゴエンカ氏の声が流れるやいなや、「これからは体を動かしてはいけません」と注意が出される。内心で「そんなことできないよ〜」と泣きながらも、ヴィパッサナーの指導が始まった。まず意識を頭のてっぺんに置くように言われるが、鼻の下もわからないのに、そんなものは無理である。  そう思っていても、ゆっくりと意識を下におろし、頭全体、顔全体を観察しなさいという。感覚は感じないが、しかたなくついていくしかない。首から肩に降りて、上腕部に入ったときに、ビリビリしたような感覚が現れた。するとどうだろう。細かい泡がシュワシュワッと沸いてくる感覚や、チクッとした傷みや、まっくろくろすけが走り回っているような感覚が出てきたのだ。  鼻の下の感覚がわからなくても、感覚を感じることができた!  これが、昨夜聞いた素粒子のさざ波なのだろうか!  感覚たちが楽しそうに勝手に腕を走り回り、それを僕は客観的に感じながらも、ブッダが発見した素粒子のさざ波はもしかしたらこれだったのかと、感動していた。手が終わったあとは足に進んだが、頭と胴体はほとんど感覚がない。それでも自分の肉体から素粒子のさざ波が生まれては消えていくことを、なんとなく実感できた瞬間だった。  動かないようにと言われて途中で足が痛くなったり、感覚を追うゴエンカ氏の指導スピードについていけなくなりそうだったが、自分で自分を励ましながら、なんとか感覚を追うことができた。気がつくと2時間の指導時間が終わっていた。瞑想が終わって感動にうち震えながら周囲を見ると、同じように感動しているのか、2時間動けなくて疲れたのか、みんな微動だにしない。  ところで、手足だけ感覚を感じられたのはなぜだろう? もしかしたら、腕や足は常に動かしているので、感覚を感じやすいのかもしれない。頭や胴体は筋肉を使うことも少ないし、「ぬもーっとしている」とよく言われるくらい無表情なので、顔の筋肉もほとんど動かしていない。なんだ、鼻の下はたんに鈍感だっただけで、手なら感覚を感じられたのではないか。  17時のティータイムを挟んで、18時からグループ瞑想が始まる。このグループ瞑想から「決意の時間」と呼ばれ、1時間体を動かさずに、目を開けずに、姿勢をよくすることが求められる。足の痛みがあったら、その傷みがどう変化していくのか観察しなさいという。物事のすべてが現れ消えていくのだから、傷みもいずれ消滅するというのだ。  頭のてっぺんから観察を始めて、右手、左手、胴体、右足、左足と意識をめぐらせていく。ワンサンクルでどのくらいの時間がかかるかチェックすると、約15分だった。つまり、頭のてっぺんからつま先までの観察を4回やれば、1時間の目安になる。意識をめぐらすことに集中していると、足の痛みを忘れてしまう。少しもぞもぞすることもあるが、組み替えないで座っていられるようになった。傷みを観察したり、ほかのことに気を紛らわせれば続けられるというのも、新たな発見だった。  19時から講話が始まる。  四日目が終わりました。 四日目はとても大切な日です。  みなさんは、身体の感覚を使って、  自身の内の真実を探究しはじめました。  ダンマの大河に浸りはじめたのです。  以前は、無知のせいで、感覚は苦しみのもとになっていました。  これからは、その感覚が、  苦しみを解消する道具にもなるということを学ぶのです。  身体の感覚を平静に観察し、  感覚を客観的に感じとることを学びなさい。  それこそが、苦しみを解消し、真の解放へと導きます。  質問したいことがいくつかあったのだが、この講話で先に答えが用意されていた。まず順番のこと。指導の順番にしなくてもいいが、いつも同じ順番で観察することが大事だという。また、例えば肩を観察しているときに足のほうがしびれてきても、それは置いておいて肩に集中し、足の順番になったらしびれをしっかり観察すること。  空を流れる雲のように、さまざまなものが現れ消えてゆく。同じように、人間の肉体にも、心地よい感覚、心地悪い感覚、そのどちらでもない感覚が生まれては消えている。それがどんな感覚であろうとも、心を平静に、客観的に観察すること。  頭のてっぺんからつま先までどのくらいの時間をかければいいかという疑問は、心が鋭い状態だと10分程度だが、心が鈍かったり感覚を感じない部分があると30分から1時間かかる場合もあるらしい。僕は15分だったから、だいたい普通のスピードなのだろう。  すべてのものが現れ消えていく無常のなかで、原因と結果の法則が働いている。原因があって結果があり、その結果が原因となり、新たな結果を生む。その流れは果てしない。同じ土に二つの種をまいたとする。ひとつはサトウキビ、もうひとつはニーム。サトウキビの種からは繊維まで甘い木が育ち、ニームの種からは繊維まで苦い木が育つ。それは自然が差別しているわけでもない。種の違いによって、現れる性質は決まっているのだ。  ところが人間は、苦い性質の種をまいておきながら、収穫するときには甘い実を欲しがる。自分の行為に注意深くありなさい。行為が種です。甘い実を受けとることになるか、 苦い実を受けとることになるかは、それによって決まるのだから。行為には、身体による行為、言葉による行為、心による行為の三つの種類がある。言葉の行為も身体の行為も、心の行為の投影にすぎない。だから、心によい種をまきなさい。  心は、意識、認識、感覚、反応という四つの部分からなっている。感覚器官が何かに接触したときに意識され、そのあとで認識され、どう感じるか判断し、実際に行動に移す。例えば「バカ」とののしられたときに、「バ」と「カ」という音の響きでしかないものが、それはバカにされていると認識し、嫌な言葉に感じ、反論する。逆に気持ちいいことであっても、同じような順番で心は反応している。  この一瞬の「すき」「きらい」という反応が、  大きな渇望、大きな嫌悪へとふくらんでゆきます。  心に縛りを結びはじめます。  実を結ぶ種、結果をもたらす行為、それがサンカーラ(反応)です。  心の反応・反発する部分なのです。  人は、一瞬一瞬、この種をまきつづけています。  「すき」「きらい」と反応・反発しつづけています。  渇望し、嫌悪しつづけています。そして、苦しみます。  ヴィパッサナー瞑想を修業すると、心の意識層と無意識層との間の壁が壊れて、心がどんな反応をしているのか観察することができるようになる。表面意識では何も感じていなくても、体の感覚器官が接触することで、必ず心は反応しているというのだ。  ブッダはこう言っている。ある反応は水面に描いた線のようなもので、描いたとたんに消えてしまう。ある反応は砂浜に描いた線のようなもので、朝に描いても夕方には潮や風で消されてしまう。ある反応はノミとカナヅチで岩に刻み込んだ線のようなもので、やがて岩が浸食されれば消えてしまう。しかし岩に刻まれた線が消えるまで長い年月がかかってしまう。  すべては過ぎ去ってゆく、変化するものだということを理解し、どんな感覚に直面してもほほえむことができるようになれば、心の反応のさざ波はすぐに消えるだろう。心の反応に執着して岩に刻んでしまうと、その傷はなかなか癒えることがない。  僕は初めてのヴィパッサナー体験に感動しながらテントに戻り、初めて味わったさまざまな感覚をかみしめていた。細かい泡のような気持ちいい感覚は、新陳代謝が行なわれて細胞が誕生しているのだろうか? チクッとした傷みは、細胞が役目を終えたサインなのだろうか? この夜は、興奮したまますぐに寝つけなかった。 ■9月21日(月)  修業5日目。いつものように朝4時に起きて瞑想に入る。昨日のヴィパッサナー指導で2時間動かないことに耐えたあと、グループ瞑想では1時間座っていられるようになった。そこで考えたのは、心と体の関係である。心を平静に保ち、傷みを観察していることで傷みを感じなくなるのだが、はたしてそれは、肉体のダメージが消えてしまうのか、肉体のダメージはあるけどそれを感じなくなっているのか、どっちなのだろうと疑問になったのだ。  30分ほど足を組んで瞑想をしたあと、次に正座をしてみることにした。これまでなら5分と持たなかったのだが、傷みを客観的に観察することで、姿勢を崩さなくてもいられるようになった。これは自分でも驚くほどの進歩だった。とりあえず1時間を過ぎたので中断してみると、やはり足首などはかなり傷みが残っているが、以前のように足がびりびりしびれた感じになって歩けないほどではない。しばらく外に出て、足を延ばしたり足首を回しながら考える。  体のダメージは少なくなっているので、  もっと心を鍛えれば、肉体も強く丈夫になるのだろうか?  それとも肉体感覚と心をいったん切り離すためにやっているのだろうか?  先生がやって来て、ゴエンカ氏の詠唱が始まったのでホールに戻る。詠唱を聞きながら、頭ではさっきのことを考えている。もし心を鍛えることで体が丈夫になるのであれば、病気が治るのではないか? 体にチクッとした傷みを感じたときに、それが表面に現れた感覚なのか、肉体的なダメージの何かのサインなのか、どうやって見極めればいいのだろうか? 極端な話、心を鍛えれば筋肉もつくのだろうか? 心を鍛え、食べ物に気を遣うことで、そこから生まれる体の細胞はきっといい性質のものになるだろう。ならば、結果的に病気にならない体になるのもおかしくない。  朝食後、散歩をしながらこれまでを振り返る。だんだん講話の内容が思い出せなくなってきた。寝る前に確認し、起きてからも再確認しているのだが、それでもしだいに脳の記憶スペースが埋まっていたようだ。たしか、同時に覚えられるのは7つまでと本に書いてあったような気がする。7つの項目というより、7日分くらいは覚えられるのかもしれない。  8時からグループ瞑想が始まる。この1時間に動かないで集中するのは、精神的にも肉体的にもかなり疲れがたまってしまう。とにかくグループ瞑想だけは集中して、残りの瞑想時間はなるべくテントで休むことにした。  昼食のメニューは、ご飯とひじきだった。昨日はアボガドサラダのようなもので、基本はおかずが一品のみ。アボガドサラダはおかずには向かないと思ったが、今日のひじきだけというのはなんとも寂しい。もう少ししっかりしたものを食べたいと思うが、そんなことは考えてはいけない、ありがたくいただかなければと思い直す。  日本ヴィパッサナー協会の活動はすべてボランティアで行なわれており、合宿コースも寄付によって運営されている。合宿の参加費用は食費、宿泊費を含めて、いっさい請求されない。すべての経費は、コースを終了し、ヴィパッサナーから恩恵を受けた人たちの「他の人たちにもこの機会が与えられるように」との思いから行なう寄付によってまかなわれている。瞑想を指導するアシスタントの先生も、仕事を休んで指導に当たり、報酬を受け取っていない。合宿コースの運営メンバーも全員ボランティアとして参加している。  これはつまり、出家者と同じ条件で修業をしていると考えていいだろう。出家した者は、托鉢をして家を回り、人々から食べ物の施しを受けながら修業を続けている。いっさいの仕事を辞めて、人生のすべての時間とエネルギーを修業に費やすのが僧侶の生きる道である。托鉢で人から分けてもらうなかには、食べ残しのものもあるだろう。食べ残しだから肉や魚をいただくこともあるかもしれない。だからお坊さんは、本当は肉や魚を食べてもかまわないのだ。  守らなければいけない五つの戒律のひとつに「不殺生戒」がある。生き物を殺さないことのなかに、植物(野菜など)が含まれていないことをずっと疑問に思っているのだが、はたしてブッダはどのように説明しているのだろうか? 栄養面から考えると、植物は人間が生きて行くために必要なものであり、動物の肉はそれがなくても困らないと考えるなら納得がいく。ほかの命をいただいて自分が生かされていると思うなら、動物も植物にも違いはないはずだ。だとするなら、生きるために何かを殺すことなら許されるのだろうか?  お昼休みの時間、朝の正座実験のことを先生に質問すると、体を痛めつけるのが目的ではなく、心と体を切り離すために行なっていると言われた。チクッとした傷みを感じて病気かと思ったら、まずは病院に行くこと。ヴィパッサナーは心の浄化が目的であって、病気を治すためのものではないということを確認できた。  13時からの瞑想は、昨日感じたような感覚は弱くなっていて、あいかわらず頭と胴体は何も感じない。2時半からのグループ瞑想もなんとか座っているだけの時間を過ごし、そのあとの瞑想時間もテントに戻って休む。とにかくグループ瞑想の「決意の時間」で精神力も体力を使い果たしてしまう感じなので、その前後の瞑想時間はほとんど何もできなかった。  1時間動かずに座っていられるようになったので、18時からのグループ瞑想は目を開けないことに挑戦する。これまで時間を気にしてときどき時計を見てきたが、暗いうえに眼鏡をしてないから時計が見にくいので、時間は気にしないことにする。  なんとか1時間をやり過ごし、19時半から講話が始まる。  身体の限られた部分で呼吸を観察するところからはじめ、  身体中の感覚を観察するところまで進んできました。  痛みはあります。苦しみはあります。  けれどもそれに反応・反発しないで観察することを続けました。  医者は患者を診るとき、その人がどんな病にかかっているかを調べます。  原因がわかれば、それを取り除くことによって、  その患者の病を癒すことができるのです。  ここでも同じです。みなさん一人一人が医師です。自分で病を癒すのです。  病の原因を取り除くための努力の一歩一歩が、癒しの一歩一歩となるでしょう。  ブッダは「人間には限りない苦しみがある」ことに気づいた。生まれ、悩み、期待を裏切られ、思うようにいかず、老い、そして人はいつか必ず死ぬ。悲しくて苦しいことだが、あらゆるものが生まれ、そしていつか死んでいく。それは普遍的な事実だと、受け入れなければならない。  ではその苦しみの原因はどこにあるのか? それは、ここちよい感覚や嫌な感覚に対して反応するときに生まれるという。ここちよい感覚に対しては「もっと感じたい」という渇望が、嫌な感覚に対しては「感じたくない」という反発する心がある。その執着心が、苦しみを生むというのだ。  人は人生において、3つのタイプの執着を生み、それを育て続けている。まず官能的な満足を求めるという執着心。麻薬中毒のほかに、煙草やアルコールなど、欲求にはキリがない。  次に「私」「私のもの」と呼ぶものに対する執着。人は自分の考えや信念、信仰に執着してしまう。だれかに批判されれば反論したくなるし、自分と違う意見は受け入れようとしない。自分がかけている色眼鏡でのぞく世界がすべてで、他人が持っている色眼鏡の色が自分と違うということさえ考えない。自分の偏見や信じていることの色眼鏡を外せば、現実をありままに見ることができるのに。  また、儀式や儀礼、宗教的修行方法についての執着もある。自分と同じ儀式をしない人は信仰心がないといわれることもあるだろう。さまざまな宗教の存在は否定しないが、儀式や教典などにとらわれてしまい、その本質を見失っていることはないだろうか。  では、執着はなぜ起こるのか? ブッダは、それが「好き」「嫌い」という反応・反発によることに気づいた。では、なぜこの瞬間の反応が生まれるのか? ヴィパッサナーで感覚を観察するときに、気持ちいい感覚はもっと感じたいと思い、嫌な感覚は逃れたいと思うことがあるということは、自分の体験としてわかってくる。  反応は、感覚器官が何かと接触することで起こる。目に映るもの、耳に聞こえるもの、体に触れるものなど、接触が生まれるとき、身体には感覚が生まれている。では、接触はなぜ起こるのか? 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の5つの感覚に加え、心も思考や感情や記憶と接触している。  ではなぜ、6つの感覚器官があるのか? それは感覚器官によって世界を認識するためである。生命の誕生と同時に、感覚器官も生まれるのだ。ではなぜ、生命の流れがあるのか? それは意識の流れがあるから。意識は、この瞬間から次の瞬間へ、ひとつの生涯から次の生涯へと流れ続ける。では、なぜこの意識の流れがあるのか?  ブッダは、それは反応(サンカーラ)によるものであることに気づきました。  心の反応のひとつひとつが、意識の流れに勢いをつけます。  意識は反応という原動力によって流れつづけるのです。  それでは、この反応はなぜ起こるのでしょうか。  ブッダの眼には明らかに見えました、  それが無知ゆえに起こるということが。  人は、自分がしていることに気がついていません。  自分が反応・反発していることに気がついていないのです。  反応・反発をつづけるかぎり、無知であるかぎり、人は苦悩しつづけます。  ブッダは苦悩の起こる過程を探ってゆき、ついに、その根本原因は無知であることをつきとめた。自分という存在に執着していたら、苦しみはいつまでも消えない。好きなことや嫌いなことに反応し続けることで、それが雪だるまのように大きくなり、やがて自分を苦しめることになる。  新しい反応(サンカーラ)を生むことをやめるとき、自然に古い反応が心の表面に浮かびあがり、同時に体には感覚が現れてくる。そのとき、心が反応しなければ、それは消えてゆく。するとまた、別の古い反応が浮かびあがってくるが、平静に観察していることでそれも消えていく。  あるとき、ゴエンカ氏の元に遠くから老婆がやってきた。老婆は、嫁入り道具の小さな指輪と親しい人から餞別でもらったわずかなお金と氷砂糖を持っていた。朝の詠唱に参加した老婆がテントに戻ってみると、悲鳴を上げている。驚いた周囲の人たちは老婆の様子を見るが、激しく泣くばかりで原因がわからない。ほどなく落ち着いたときに話を聞いてみると、大事にしていた嫁入り道具の指輪と餞別を入れた袋がなくなっているというのだ。指輪は高価なものではないし、餞別もわずかな金額だったので、周囲の人たちはカンパを募り、元の額の何倍ものお金を老婆に渡した。けれども老婆は納得しない。自分の嫁入り道具の指輪でなければ意味がないというのだ。けっきょく、氷砂糖目当てにサルが袋を持ち逃げしたのを見つけ、袋は取り戻すことができた。それでようやく、老婆は落ち着いたという。執着心というのは、それほど人を苦しめるのである。  また、貧乏な村に住む人が、友人が立派な家を建てたことをうらやましがる。自分も大きな家を建てたいとがんばって仕事をして、立派な家を手にするが、部屋はがらんとしていて、友人が持っているような立派な家具がない。またがんばって働き、家具を手にすると、今度は友人のベンツがうらやましくなる。自分は軽自動車だ。そうやって、渇望・欲望の連鎖にはキリがない。原因があって結果があり、その結果がまた原因になって次の結果を生む。その繰り返しが続くのである。  講話のあと、翌日の瞑想の課題が出されたあと、いつものように終了。テントに戻って寝る。 ■9月22日(火)  修業6日目。いつものように朝4時に起きて、4時半から瞑想に入る。頭のてっぺんから足のつま先まで意識を巡らせ、順番に感覚を観察しなければいけないのだが、頭と胴体はあいかわらず何も感じない。頭全体、顔全体、胸全体と、少し大きいブロックを意識してみるが、やはり同じだ。おでこに集中すると、おでこのイメージが前方に現れてしまい、最初の数日でやった鼻の下と同じことになってしまう。  朝食後、散歩しながらこれまでを振り返り、8時からのグループ瞑想に入る。時計を見なくなり、1時間座っていることが苦痛でなくなったこともあって、時間が気にならなくなってきた。時計を見てしまうと、もう15分も過ぎたとか、まだ5分しか経ってないとか、あと30分も残っているとか、ついつい時間にとらわれてしまっていたことに気づく。時計を見ないことで、時間の概念から解放されて瞑想に集中できるようになった。もちろん、ヴィパッサナーで感覚を観察していることもあるが、ときどき妄想しているときがあっても、時間にとらわれなくなっている。  そのあとの瞑想は1時間くらいホールにいて、それからテントに戻って休む。昼食後に少し昼寝。ヴィパッサナーの指導が始まったあと、毎日少しずつ複雑になっていくが、ここでは具体的な指導内容には触れないようにする。それは、この文章を読んで実践する人がいると困るからである。それはたんにケチッて教えないわけではなく、指導者がいないところでヴィパッサナーを行なうと、何かあったときに対応できないという配慮からである。ヴィパッサナーは心の奥まで入り込む瞑想法なので、注意しないと精神状態がおかしくなってしまうこともあるらしい。  午後の瞑想は頭と胴体を中心に観察してみるが、やはり集中すればするほどイメージが外側に飛び出てしまい、皮膚感覚に入り込めない。鼻の下の感覚を感じられなかったときのように、感覚を感じられないことに対してあせりを感じてくる。どうしたら、手足と同じような感覚が頭や胴体に現れるのだろうか。  14時半からのグループ瞑想が終わり、そのあとの瞑想時間に入るときに、ゴエンカ氏の言葉が耳に残った。  もう一度、始めなさい。  落ち着いた、注意深い、平静な心で、  もう一度、始めなさい。  これまでは、感覚がない部分に集中しすぎていたのかもしれない。そう思って、「落ち着いて、注意深く、平静な心で、おでこを観察する」と思いながらおでこに意識を置いていると、3回くらい言葉を繰り返したところで、おでこにピリピリした感覚が現れたのだ。驚いた僕は、これまで感覚を感じなかった首や胸など、同じようにこの言葉を意識しながら観察してみた。するとどうだろう。おでこと同じように、感覚がわかるようになったのだ。  17時のティータイムを挟み、18時からグループ瞑想が始まった。  よし、この方法で頭のてっぺんから足のつま先まで観察してみよう。  落ち着いて、注意深く、平静な心で、  落ち着いて、注意深く、平静な心で……。  何度か繰り返しているうちに、頭のてっぺんがざわざわした感じになってきた。その感覚を保ちながら、ゆっくり下に意識を移動していくと、スキャナのセンサーのような直線がゆっくりゆっくり下がっていく。まるでCTスキャンに入っているような感じである。  途中で引っ掛かって止まりそうになると、また「落ち着いて、注意深く、平静な心で」と自分自身を励ましてみる。するとまたスキャナのセンサーは動き始める。これは、このまま感覚を感じられるかもしれない。最初のヴィパッサナー指導のときも、ゴエンカ氏のリードが有効だったと思った僕は、自分の横にインストラクターに立ってもらい、励まされるようにしながら、スキャンを続けていた。  落ち着いて、あせらないで。  感覚に集中して、しっかり感じて。  平静な心を保ち続けて。  インストラクターのおかげで、頭のてっぺんから足のつま先まで、きれいに感覚を感じることができた。これまでの手足の感覚とはまた違い、体全体をきれいに観察できたことが心地よかった。  昨夜からの課題を考えながら感覚を観察しているうちに、手足全体の感覚が同時に共鳴するようになり、体全体が細かい振動に包まれたような状態になった。  なんだこれ!  すごく気持ちいい〜。  感覚に執着してはいけないと言われているので、気持ちいいと思ってはいけないんだと我に返り、また頭のてっぺんからの観察に戻る。それにしても、あの状態はいったい何だったのだろうか?  19時になり、今日の講話が始まった。ブッダは「人生は苦しみの連続である」と説いたが、それを聞くと悲観的になってしまう人がいる。でも、実はそうではないのだ。  この道は悲観主義の道ではありません。  ダンマ(法)は、苦悩という苦い真実を受け入れることを私たちに教えますが、  そこから抜け出る方法も教えます。  この道は現実主義の道、楽観主義の道なのです。  働くのはみなさんがた一人一人。  自分自身の解決のためには、自分自身で働くしかないのです。  ブッダはすべてのサンカーラ(反応)は無常であると説いている。すべての反応を智慧をもって観察するとき、人は苦悩から離れるのだ。すべてのものは生まれ消えていく。この真実を信仰心から、あるいは頭の中だけで受け入れたとしても、それだけでは、心を浄化することはできない。心を浄化するためには、自分自身の体の感覚から理解しなければいけない。気持ちいい感覚、痛くて不快な感覚、何も感じない感覚など、さまざまな感覚が現れては消えていくことを肌で感じ、どんな感覚であってもそれを区別せず、平静な心で観察していると、やがてそれは消えていく。  反応しないことといっても、それは盲目的に植物のように無感情になることではない。盲目的に反応・反発していた心のクセを取り除き、正しい行動を起こせるようにする訓練なのだ。バランスのとれた心から生まれるものは、自分にとっても、またほかの人にとってもいい行動になるだろう。  シーラ(道徳律)、サマーデイ(集中力、心のコントロール)、パンニャー(智慧、心を浄化する洞察力)という教えは、ブッダ独自のものではなく、以前からインドにはあったという。ところがブッダは、身体の感覚こそが渇望と嫌悪のはじまるところであり、その時点でそれを消滅させなければならないということを、身をもって感じたのだ。これは信仰心によって受け入れるものでもなく、頭で理解する哲学でもない。自分自身の体験によって受け入れることが大事なのだ。  修業を続けるときに5人の敵が現れる。感覚に対する「渇望」と「嫌悪」の反応。心の奥底から反発する「睡魔」の誘惑。瞑想以外のことをしたくなる「動揺」。修業に対する「疑惑」。この瞑想方法は自然の摂理に沿ったもので、魔術や奇跡によって行なわれるものではない。執着することなく、盲目的になることなく、正しい理解をもって修業を続けることで、苦しみから自由になり、真の安らぎを得ることができる。  講話が終わってから、先生に質問する。「落ち着いて、注意深く、平静な心で」という言葉でリードしたら、うまく全身の感覚を感じられるようになったが、最初の説明でお経を唱えたり、特定の言葉を使わないということを注意されていたので、それが気になったのだった。先生によると、言葉が思い浮かんでしまうのはしかたないが、意識的に言葉を使うのは避けるようにとのことだった。感覚のスキャンに入るきっかけとしてはいいかもしれないが、言葉に頼ってしまうと本質から離れてしまうようだ。今はしかたないが、そのうち言葉を意識しなくても感覚に入れるようになるだろう。徐々に言葉を減らしていくことにしよう。 ■9月23日(水)  やっと修業7日目に入った。5日目を終えるころはまだ半分(実質10日)あると思っていたが、少しずつゴールが見えてきた。昨夜、全身が感覚の振動に包まれたせいか、朝の瞑想時間も順調に感覚が現れている。それでもやはり、頭と胴体はほとんど感じない。8時からのグループ瞑想は、昨夜の感覚と同じように手足の全体で感覚を感じられるようになった。  午前中の瞑想を楽しく終えたものの、13時からの瞑想はまったく身が入らない。昨日の感動もあって午前中は集中できていたのだが、かなり疲れてしまったようだ。頭や胴体の感覚はいまだに感じないが、手や足の感覚さえもだんだん鈍ってわからなくなってきた。これではいけないと思い、テントに戻って体を横にする。  お昼の質問時間に、昨夜の体験を先生に聞いてみる。感覚に包まれた状態になったときに、どうすればいいのか確認すると、それは8日目からの指導にあるので、そこで学んでくださいと言われた。どうやら指導内容を勘違いして、ちょっと早く、次の課題をやってしまったようだ。  サンカーラ(反応)について、まだ頭で整理できないないことも質問する。寝返りのように無意識に体が動いてしまうこともあるし、何か嫌なことを言われたら心にトゲが刺さってしまうのは避けられない。であるならば、トゲが刺さったことに対して、「痛い、嫌だ、なんてひどいことを言うんだ」と反発するのではなく、「ああ、トゲが刺さってしまった」と客観的にそれを観察することで、いつかトゲが抜けることなのだろうか。  ヴィパッサナー瞑想をすることで、心が反応する前の段階の意識を観察するのか、反応したあとの状態を観察するのか、どちらかわからなかったのだ。先生によると、反応したあとの状態を観察するようだったが、嫌なことを言われてもトゲが刺さらない状態を保つということも言われた。それはやはり、反応する前に意識をストップしているのではないのか?  また渇望のサンカーラについても聞いてみた。自分の大きな家が欲しいという欲がいけないのはわかるが、王子の持っている庭園にブッダの教えを受けられる瞑想センターを建てたいという欲もまた、渇望ではないのだろうか? どちらも「〜したい」ということに変わりがない。渇望のなかにも、いいものと悪いものがあるのではないか。それについて、先生は次のように答えてくれた。  「〜したい」という希望を持つことは人生においてたいせつです。  もしそれが実現しなかったときに執着してしまうなら、それは渇望です。  実現しなくても、まあいいか、いつか実現しようと流せるものは純粋な希望です。  たくさんお金を持っている人がブッダに出会い、その教えを多くの人に知ってもらいたいと願って、王子の庭園に瞑想センターを建てることは、だれかの幸せのためでもある。立派な自分の家を建てたいという気持ちとは、そこで大きく違っているのかもしれない。  2時半からのグループ瞑想では睡魔におそわれ、アーナーパーナもできず、なんとか座っているだけの時間を過ごす。そのあとの瞑想時間もテントに戻って休む。しばらく横になったあと、別に座らなくても感覚は観察できると思い、寝ながら意識を置いてみた。  すると再び手足に少し感覚を感じられるようになった。上腕部に意識を置いて、マッサージするような感じでぎゅっと握ったようなイメージを作ってみる。すると実際には触れていないのに、ぎゅっと握られた感触が残り、そのまま指先まで意識のマッサージを試みると、じんわりと腕全体がしびれるようになったあと、細かい感覚を観察できるようになった。同じように足のほうも意識のマッサージを試みると、昨夜のような手足の感覚が戻ってきたのだ。  ティータイムのあと、意識のマッサージを全身にやったあとグループ瞑想に入る。意識のマッサージで“準備体操”をしたせいか、今度は昨夜のように細かくはっきりした感覚を感じられるように、1時間があっという間に過ぎていった。  19時から講話が始まる。  この瞑想法には、二つの大切な面があります。  明晰な意識で気づいていること、そして心の平静さ、です。  心の静けさが保たれるようになると、  それまで感じとることができなかった部分にも、  自然に感覚が現れてくるのを知るでしょう。  そして、身体全体に、大変きもちのよいエネルギーの流れを体験するでしょう。  この気持ちよい感覚の流れを感じると、修業の最終目標と錯覚してしまう人がいるようだ。気持ちのよいものも、嫌なものも、心を平静に保って観察すること。特定の感覚を観察するのが目的ではなく、どんな感覚に対しても心のバランスを保つようにするのが目的なのだから。  人生を本当に変えたいと思うならば、身体の感覚を観察することを通して、心の平静さを育てなければならない。感覚は、一瞬一瞬身体の内に生まれているのに、意識の上では、それに気づいていない。けれども、無意識な部分の心はそれを感じとっていて、好んだり嫌ったり、と反応しているのだ。肉体構造の中に起こるすべてを感じとり、同時に平静であるように心を育てるならば、盲目的に反応する心の習性は、打ちくだかれるだろう。どのような状況にあっても平静であること、それを身につけさえするならば、調和のとれた幸福な人生を生きることができる。  明日は1日、スケジュールがありません。  これまでの修業を日常生活に生かすために、  特別な瞑想方法を学びます。  だからといって、いつも瞑想ホールに座って瞑想しなくてもかまいません。  休憩時間中も同じように、  感覚に気づきながら心の静けさを保つように心がけます。  歩くことであれ、食べることであれ、飲むことであれ、入浴することであれ、  いつものように行いなさい。  故意にゆっくり行動してはなりません。  身体の動き、そして同時に感覚に気づいていなさい。  可能ならば、動かしている身体のその部分の感覚に気づいていなさい。  さもなければ、そのほかのどの部分でもかまいませんから、  感じとれる部分の感覚に気づいていなさい。  同じように、夜床についたならば、目を閉じて、  身体のどこかに感覚を感じとりなさい。  この話を聞いた僕は「習いたかった日常のなかでできる瞑想方法がやっと始まる」と期待を抱いた。8日目からは、歩く瞑想があるのだろうか? しかし、カタツムリのようにゆっくり動いてはいけないらしい。ブッダは言う。  一瞬も怠ることなく、感覚にたいして意識をとぎすませ、  心の平静さを保つ熱心な瞑想者は、感覚をよく知って、智慧を育てる。  知覚力(気づきの力)を養い、平静さを育てながら正しく修行するならば、だれでも、涅槃(ニッパーナ)の境地に達することができるという。そかしそれは、一人ひとりが自分自身で修行しなければならない。  修業を妨げる5人の敵(渇望、嫌悪、睡魔、動揺、疑惑)に対するように、5人の友を見方につけよう。最初の友は「信心」(サッダー)。盲目的にだれかの言うことを信じるのではなく、聖者や神のもっている良い徳を自分の内にも育てようという気持ち。例えば、ブッダに帰依するといっても、ブッダ本人ではなく、悟った人の教えを自分のものとする意味なのだ。ブッダを正しく敬うということは、宗教儀式や祭礼によってではなく、教えを実践することに尽きる。  次の友は「努力」(ヴィリヤ)。ガンジス川に舟をこぎだした修行者たちは、必死になって一晩中舟をこぎ続けた。翌朝、はるかかなたの土地に着いたと思ったら、そこは出発した場所と同じだった。舟のロープが陸につながれたままだったのだ。間違った努力をしていたら良い結果は得られない。  次の友は「知覚力」(サティ)。知覚力、気づきは過去のものでも未来のものではなく、現在、この瞬間のものである。過去は思いで・記憶、未来は期待・不安・恐れがあるのみ。この瞬間、自分自身の体に現れる事実を知覚する能力を養おう。  次の友は「心の集中力」(サマーディ)。瞬間から瞬間へと、とぎれることなく現実を知覚し続けること。何の想像もなく、渇望や嫌悪もないとき、それは正しい集中になる。  最後の友は「智慧」(パンニャー)。講話を聞いたり、本を読んだりして、頭で得る知恵ではなく、体験を通して自分自身の内に育てるもの。身体の感覚に対し、無常の性質を理解しながら、平静さを保つ。心の奥深くでの静けさが得られるようになると、日常生活の浮き沈みにあっても心のバランスは崩れないのだ。  明日の期待が高まって、講話の内容が耳に入らない。体と連動させると記憶しやすいと読んだことがあるので、こういうときには指を折りながらひとつひとつのキーワードを覚えていく。講話の途中でも順にキーワードを思い出して次を増やしていく。  講話のあと、先生に質問する。夕方、感覚のマッサージをしたらいい状態になったのだが、そういうことをしてもいいのか聞いてみた。「それはヴィパッサナーではないのでしないでください」とはっきり言われてしまった。感覚がないとそれに対して落ち込んでしまうので、少しでもきっかけを作れればと思ったのだが、あくまでもヴィパッサナーは意識を置いたときの感覚を観察するものであって、感覚を意識的に作り出してはいけないのだ。  昨夜の言葉のリードはいつか使わなくてもよさそうだが、感覚のマッサージはクセになるとそれに頼りかねない。やはり先生が言うように、この方法は使わないほうがいいだろう。けれども、まったく感覚を感じないと悩んでいる人には、感覚がどんなものかわかるきっかけになるかもしれない。瞑想のときではなく、休憩時間に少し試してみるくらいなら、感覚に渇望している状態は収まるかもしれない。自分を振り返ってみても、感覚を感じられるようになったことで、感覚がない状態でも「感覚がないときもあるのだ」と割り切れるようになった。それが、一度も感覚を感じずに、感覚がどんなものか想像できないときは、どんどんネガティブな状態に入ってしまうのだ。  テントに戻り、講話のキーワードを指折り確認しながら、明日に期待して眠りにつく。 ■9月24日(木)  修業8日目。いよいよ残りの日が少なくなってきた。朝の瞑想を1時間ほどで切り上げ、明るくなってきた外を散歩する。敷地の端の草地は夜露で濡れ、長靴がその水分を集めていく。いよいよ今日は日常生活のなかで生かせる瞑想方法を習えるのだ。そう思うとうれしくなり、体に当たる風を意識したり、虫の音に耳を澄ませたり、心地よい自然に身を任せてみる。  長靴の底が草を踏みしめる感触を確かめながら、目を閉じてみる。サクッ、サクッという草の音がはっきりと聞こえてくる。次に、指で耳をふさいでみた。するとどうだろう。音が聞こえなくなると、さっきまで草を踏んでいた感覚がぐっと少なくなったのだ。濡れた草を踏みながら歩く感覚のほとんどは、サクッという音で実感していることがよくわかる。  6時前に瞑想ホールに戻り、ゴエンカ氏の詠唱を聞いてから朝食。けれども、昨夜の講話では「明日はスケジュールがありません」と言っていたのに、掲示板のスケジュールは昨日と同じままである。変えるのを忘れたのか、途中で何か指示があるのか、疑問のまま次の瞑想時間を待つ。  8時からのグループ瞑想で新しい指導があると思ったら、昨夜の課題の続きが繰り返された。グループ瞑想のあとの時間にも新しい指導はなく、ちょっとがっかりしながら過ごす。4日目のヴィパッサナー指導は15時からだったから、午後になってからかもしれない。  昼食後、先生に質問する。まず、頭と胴体の感覚を感じられないことについて。勉強などで苦手な分野があったら集中レッスンをするけれども、感覚を感じないところを集中的に観察するのではなく、あくまでも頭のてっぺんからつま先まで全体を見るのはどういう意味なのか?  外の景色を眺めると、林があって大きな空が広がっていて、  自然はすごく大きく感じます。  けれども、太陽系、銀河系、その外側の宇宙全体から見れば、  目に見えている大自然もチリにもならないほどの大きさです。  ところがそのチリにも満たない自然のなかにいる人間の体は、  「完成された宇宙」ということを、ブッダは発見したのです。  だから、部分だけを見るのではなく、全体を観察する必要があるのです。  もうひとつ、昨夜からの指導で「ほうきで掃くように流れを見る」と言われたが、それは一度にさっと掃くようにするのか、さっさっと複数回に分けるようにするのか、どっちなのだろうか? それに対して先生は「イメージではなく、流れるときはもう決まってます」と言う。気を流すようにすると感覚を感じやすいが、それは意識のマッサージと同じように感覚を作り出すことなので、ここで言う「流れ」とはまったく違うらしい。よくわからないが、その感覚もいつか体に現れるのだろうか。  13時からの瞑想が始まっても、あいかわらず同じプログラムである。また始まらなかったとがっかりしてしまい、瞑想にも集中できない。途中で抜けてテントでふて寝する。2時半からのグループ瞑想で始まるかと思ったら、また同じことの繰り返しだ。「決意の時間」なので外に出ることはできず、いろいろ空想しながら1時間をやり過ごす。  そして15時半からの瞑想時間になった。ここで始まらないとおかしいと思ったが、また何も変化がなく、普通に瞑想が始まってしまった。どうやらこの様子では、新しい瞑想方法の指導は今日はなさそうだ。  16時ごろにテントへ戻ってふて寝する。もしかしたら、昨夜の講話のMDが間違って流れたのかもしれない。期待してはがっかりという状態を繰り返してきたが、このままでは今日はムダな時間を過ごしてしまう。特別な瞑想方法はきっと10日目にあるのだろう。昨夜の講話は9日目の夜に流れるはずだったのだ。どうにかして気持ちを立て直さなければ、明日もムダな時間を過ごしてしまいそうだ。  テントでうつぶせになって気持ちの切り換え方を考える。しばらく悶々としていたら、ふと「そうだ、自分が悪いのではないか」と気がついた。朝になってスケジュールが変わらなかった時点で確認すればよかったのに、勝手に期待してがっかりしていたのだ。ただし、「聖なる沈黙」で、気軽にマネージャーに相談する雰囲気がなかったので、話しかけにくかったこともある。17時のティータイムのときにマネージャーに声をかけて、今日は特別な瞑想方法は習わないこと、それは10日目にやることを確認し、次のコースを受ける人が混乱しないように、昨夜の講話の内容をチェックしてもらうようにお願いする。  その後、また敷地の端に行って、ベンチで横になって空を見上げる。今日は一日、勝手に期待してひとりでがっかりしていたけれども、それは自分が悪かった。生きとし生けるものが幸せでありますように。再び、瞑想できるように集中力を与えてください。視界に入る森や空を見つめ、虫の音に耳を澄ませながら、ひとりで反省する。  気持ちを切り換えて、18時からグループ瞑想に入る。これまでのこだわりも消えて、リラックスして瞑想に入ることができた。手足の感覚に集中していると、突然、体の周りを意識が動き始めた。両手と両足で輪を作ったようなイメージで、その輪をぐるぐる感覚が回っている。先生が「流れるときはもう決まってます」と言っていたのは、このことだったのだ。その後、柔道の指導をするように両手を前後にぐるぐる回す感じがあったり、左右の手でキャッチボールをするような感覚だったり、両手両足を螺旋状に進んだり、腰から頭まで引っぱり上げるような感覚があったりと、なかなかおもしろい。6日目の夜に感じた気持ちよさもそうだが、今回のおもしろい感覚にも、執着してはいけないと言い聞かせる。でも、気持ちいいものは気持ちいいし、おもしろいものはおもしろいと思ってしまうのだが……。  感覚の流れが一段落したあと、頭の後ろ側に虫が止まって、髪の毛の中をもぞもぞ動いている感覚があった。かなりリアルだったので、もしかして本当の虫だったら嫌だと思い、ちょっと頭を動かしてみるが、もぞもぞ感はなくならない。動いてはいけないし、目を開けてもいけないので、どうにもならない。もし手で払ったときにリアルな虫ではなく感覚だったときに、感覚に対して反発の行動にならないのか気になる。けっきょく、そのまま我慢していたら、感覚は消えてしまった。どこかへ飛んでいった様子もないので、やはり感覚だったのだろう。  グループ瞑想が終わり、19時から講話が始まった。昨夜は、サンカーラについて次のように納得していた。気持ちいいと思うことはあっても、執着しなければサンカーラとして蓄積されないのではないか。つまり、心の反応のうち、執着するものがサンカーラとなってしまうのではないか。ところが、今日の講話でその仮説がいきなり崩れ去った。  すべてのサンカーラ(反応)は無常であり、  生まれては消え去るという性質をもっています。  それは消え去り、次の瞬間ふたたび生まれます。何度も何度も生まれます。  サンカーラは増えつづけるのです。  しかし、客観的に観察することができるならば、  増加の過程はとまり、消滅の過程がはじまります。  自分自身の内に起こっていることは、外の世界でも起こっている。インド原産のバニヤンという大きな木の種をまくと、やがて大きな木に育ち、毎年数えきれないほどの実をつける。その実がまた芽を出し、さらにたくさんの実を結ぶ。そうやって、たった一粒の種は、終わりのない増殖を始めていく。  人が無知になってサンカーラという種をまくとき、その種もいつか実を結ぶときがくる。バニヤンの木と同じように、たくさんの実を結び、新しいサンカーラを生むだろう。肥沃な土地に種がまかれれば育つけれども、種が乾燥した土地にまかれれば芽は出ない。心の反応をせずに新しいサンカーラを生まなければ、肥料がない状態になって種が育つことはない。芽を出さない種はやがて消滅するだろう。  同じような技を、近代の冶金学(やきんがく)に見ることができる。ある種の金属を完璧に純化するためには、10億分の1分子の異質物であっても取り除かなければならない。その方法は、純化したい金属を棒状にして、完全に純化された同種の金属で輪を作り、その輪を金属の棒に沿って動かすという。すると、不純物が棒の端に集まって取り除かれるのだ。同時に、棒を形成する分子のすべてが整列し、曲げやすく、打ちのばしやすくなり、使いやすくなる。これと同じように、ヴィパッサナーの技も、純粋な気づき(意識)の輪を身体の上に動かすことによって、不純物を引き出すという考え方なのだ。  あるとき、ブッダは、真の幸福、最上の幸福とは何か、と問われました。  そのとき、 こうおっしゃっています。  「まことの幸福、最上の幸福とは、   人生の浮き沈みにあっても、   どのような状況にあっても心が乱れないこと、   静かな心でいられることである」  楽しいときもあれば、痛みを伴うときもあるでしょう。  勝利するときもあれば、敗北するときもあるでしょう。  利益を得ることもあれば、失うこともあるでしょう。  名声を博することもあれば、悪名を流されることもあるでしょう。  それが人の世の常です。  どんな状況においても、ほほえむことができるならば、  本当に、心の底からほほえむことができるならば、  心の奥深くに静けさがあるならば、そのような人は、真に幸福な人です。  智慧は感覚を知ることによって育てられる。どんな状況においても感覚に気づいていて平静であるよう訓練するならば、何も恐れることはない。バランスのとれた平静な心で起こす行動は、自分にもほかの人にもよい行為となる。  例えば、ケンカをしている人たちがいるとき、普通なら被害者だけに同情して助けようとするが、ヴィパッサナー瞑想をしている者は、両者に慈しみを向けるいう。加害者が、いかに自分の中に苦しみを持っているか理解しているからである。  あるとき、ゴエンカ氏の師匠が瞑想途中で頻繁に中断する弟子を見つけ、一喝したことがある。瞑想センター中に響き渡るほどの怒声だったそうだが、ゴエンカ氏の横に戻ってきた師匠はにっこり笑って「ゴエンカ、怒ってきてやったぞ」と笑っていたそうだ。何か行動を起こすときに、相手に対して少しの反意もなく、思いやりの気持ちだけがあるならば、強い言葉も、強い行動も、その人の助けとなるだろう。  ブッダは、世の中には4種類のタイプの人々がいると言う。ひとつ目は、闇から闇へ走る人々。二つ目は、明から闇へ走る人々。三つ目は、闇から明へ走る人々。四つ目は、明から明へ走る人々。  闇から闇へ走る人々は、いつも不幸で、苦しみに出会うと自分の怒りや憎しみを増してゆくタイプ。明から闇へ走る人々は、お金も地位もあるのに、「我」を育て続けていずれ苦しみを生むタイプ。闇から明へ走る人々は、現在は不幸かもしれないが、自分の苦しみは自分自身にあると気づき、状況を変えるために努力するタイプ。明から明へ走る人々は、お金も地位も権力もあるけれども、自分の富を自分や家族ためだけに使うのではなく、社会やほかの人のために使うタイプ。  それぞれの人が現在は「闇」であったり「明」であったりするが、それは過去の行為によってもたらされたもので、今の状況を変えることはできない。しかし、ヴィパッサナーによって、感覚に対する鋭い意識(気づき)と平静さを育てることにより、未来を「明」に変えることができるのだ。  講話が終わり、また先生に質問する。夜のグループ瞑想でリアルな虫の感覚があったときにどうすればいいのか聞いてみた。虫だと思ったら、手で払ってもよいそうだ。手で払うことは事実の確認であって、感覚に対する反発ではないので問題ない。もうひとつ、手で払うことでリアルな感覚が消えてしまったらもったいないと思ったが、それは感覚に対して執着しているということに気づいた。手で払って感覚がなくなったら、それはしかたないと思わなければいけないのだ。  もうひとつ、講話の中で「心はサンカーラを栄養にしている」という言葉があった。新しいサンカーラを作らず、過去に蓄積したサンカーラがすべて浄化されたとき、心は何を栄養にするのだろうか? 先生には「それは最終目標の段階なので、私にもわかりません」と言われてしまった。けれども、新しく作ってはいけないものや、浄化しなければいけないものを、心が栄養にしているのは納得できない。  テントに戻り、寝袋に入りながら考える。すべてのサンカーラは生まれ消えていくならば、まず最初に意識するものと意識しないものに分かれるのではないか。意識しないものは、寝ているときの寝返りだったり、日常生活の雑音だったり、いちいち記憶していると脳がパンクしてしまうから忘れるようになっている出来事。次に、意識するサンカーラのうち、好ましいものと好ましくないものに分かれる。そしてその両者の中で、執着心を持ったものが岩に刻み目を入れたり結び目を作って蓄積されていき、一方、愛と慈しみの心を持ったものは、すぐに消えていく。最終的に、愛と慈しみの心を持ったサンカーラを心は栄養にしていくのではないか。ゴエンカ氏の師匠の一喝も、「あいつはダメだな」と一度思った(嫌悪した)あと、愛と慈しみの心で行動(反発)を起こしていると考えられる。  この仮説でいくと、自分のために立派な家を建てたいという欲望は執着心を持ったサンカーラで、だれかのために瞑想センターを建てたいという希望は、愛と慈しみの心を持ったサンカーラとなる。  今日は夕方までムダな時間を過ごしてしまったが、夜は非常に有意義な時間を得ることができた。修業はいよいよあと2日。「聖なる沈黙」がとかれるのは最終日なので、実際の修業は明日1日だけである。 ■9月25日(金)  修業9日目。10日目は会話ができるようになるので、修業に集中できるのは今日だけである。4時半からの瞑想はアーナーパーナの集中をしながら、これまでの修業内容を振り返ってみる。最初は鼻の下の感覚を感じられず、いったいどうなるのか不安になったが、4日目のヴィパッサナー瞑想が始まってからは、これまで感じなかった体の感覚を楽しむことができた。  ブッダは自分の体を観察することで宇宙の仕組みを解明し、悟りを開いた。自分の体を観察することは、知的好奇心を満たしてくれるおもしろい行為なのだ。ピリピリしたり、チクッとしたり、さまざまな感覚が生まれては消えていくというのは、簡単に言えば新陳代謝を実感しているのかもしれない。けれども、それが流れのように体中を駆け巡るというのは、いったいどうしてなのだろうか?  6時半に食堂に行って、いつものように窓の外を眺めながら食事をしていると、ふと頭の中にインド占星術のウマ氏の言葉が浮かんできた。  40歳以降、何のために生きるかというと、  それは精神世界に関する活動をすることです。  人々や社会のお役に立つ活動をこれからの人生を目標としてください。  そのプログラムはもう起動しています。  スピリチュアルな能力を身につけたり、勉強したりして、  それを生かして人々のお役に立ってください。  そしてこれが大事なことですが、  お金のためにやる仕事ではなく、  人々のためにやる仕事ということを意識してください。  そして、手相カウンセラーのワジョリーナさんを通して、この修業に来る前に聞いた守護霊さんの言葉が浮かぶ。  四国のお遍路に行かなくてもいいのです。  北関東の田舎で、これからやることが見つかります。  農業をしている人ではなく、何かをリードする人です。  人の心と体を癒す仕事で、お金のためではないもの。千葉は北関東ではないが、ゴエンカ氏は瞑想をリードする人である。これはつまり、ヴィパッサナー瞑想を伝えていくことが、これからの僕の役目なのかもしれない。四国で感じた「信仰心は自分のなかにある」ということが、ブッダの教えとヴィパッサナー瞑想の実践によって、まったく同じことが伝えられる。そう思った瞬間、涙があふれそうになり、そそくさと食器を片づけて外に出て、敷地の端まで歩いていく。  ゴエンカ氏はヴィパッサナーをお金儲けに使ってはいけないと、細心の注意を払っている。もし僕がヴィパッサナー瞑想を紹介する本をまとめようと思ったときに、それは結果的に収入に結びつく。それは悪いことなのだろうか? 何かの行動を起こすときに、愛と慈しみを持って行ないなさいと教えられた。ヴィパッサナー瞑想を紹介する本を書く目的は、こんなに素晴らしい瞑想があることをもっと知ってもらいたいという純粋な気持ちからだし、仮に印税がもらえないとしても、そこにこだわっていない自分がいた。  8時からグループ瞑想が始まる。朝の気づきで、自分の中では、今回の修業は目的を達したような気持ちになっていた。最終日の日常の中に生かす瞑想方法に対する期待は残っているが、感覚を観察することについては、気持ちに区切りがついたようだ。  その後の瞑想でも感覚の流れがぐるぐる回っていたが、それをおもしろいと感じることは少なくなった。たしかに最初に感じたときはおもしろいとか気持ちいいと思うが、何度もその感覚があると新鮮さはなくなってくる。けれどもその感覚に執着して期待し続けると、おもしろさや気持ちよさに喜び続けてしまうのかもしれない。  午後の瞑想は、ちょっと鼻や耳が詰まったような感じになり、アーナーパーナに集中できない。口で呼吸してみるものの、やはり集中が続かないので、テントに戻って休むことにした。2時半からのグループ瞑想はとにかく座っているだけにして、そのあとの瞑想時間もすぐにテントに戻ってしまった。  修業に納得したものの、ひとつだけ、心残りな部分があった。「体の一部に凝固した鋭い感覚、不快な感覚」があれば観察しなさいと言われるのだが、凝固していて鋭いという日本語の意味がよくわからなかった。けれどもその感覚は、感覚を感じない部分に潜んでいるという。最初は真っ暗闇の状態だが、しだいに薄曇りになり、雲が消えてはっきりしてくると、その凝固した鋭い感覚が現れるらしい。そしてこの凝固した感覚が、過去のサンカーラが表面に現れていることだという。10日間の修業のうち、だいぶさぼっていたので、この感覚は出てこないだろう。先生に聞いたときも「まだそういう時期にないのかもしれない」と言われた。  夜のグループ瞑想で、ちょっと実験をしてみることにした。感覚器官が何かに触れたときに、必ず心は反応しているというならば、視覚や聴覚の刺激に対応するように、体のどこかに感覚が現れているはずだ。目を閉じているので視覚は感じられないから、虫の音に耳を澄ませてみる。たくさんの秋の虫が鳴いているなかで、コオロギの羽音に意識を向けてみた。すると、お腹の左側の奥のほうが、虫の音に反応してかすかに振動している。実際にそれがコロオギの音に対する感覚なのかわからないが、虫の音と連動しているのは間違いない。ヴィパッサナー瞑想は、こういったほかの感覚器官に対する反応も見るのだろうか?  19時になり、講話が始まる。  九日目が終わりました。  この瞑想法を日々の生活のなかで生かすにはどうすればよいか、  お話するときがやってきました。これこそが最も大切なことです。  どんな人にも、いやなこと、望まないことが起こります。  何か望まないことが起こると、心のバランスを失い、反意を生み、  みじめになるのが人の常です。  それでは、みじめさの原因である反意を生み出さず、ないためには、  やすらぎと和を保ちつづけるには、どうしたらよいでしょうか。  例えば映画を見に行ったり、お酒を飲んだりして、快楽で気を紛らわせるという方法がある。ところが快楽は心に執着を生むので、執着が大きくなればなるほど、みじめさも大きくなってしまう。次に賢者が考えたのは、快楽以外のことに心をそらすという方法だった。反意が起きてきたら、少し歩く、水を飲む、数を数える、あるいは信仰する神や聖人の名前を唱える方法だった。しかし、悟りに至った人々には、注意をそらすことは問題から逃げることであり、また、反意を心の表面から心の奥深くへと押しやることにすぎないということがわかった。心の奥底では、押し込められた反意がくすぶりつづけ、ある日、再び表面に姿を現してくる。  心に反意が起こるとき、注意をそらして抑圧するのでもなく、言葉や身体の行為で発散するのでもない、ただ観察するという行為は、たいへん難しい方法だ。反意が起きるきっかけとなった外側の対象に、意識が引っ張られてしまう。  心に反意が生まれるとき、呼吸が普通ではなくなり、身体に生化学的反応として感覚が生まれる。ヴィパッサナー瞑想によって感覚を観察することはできるが、それが難しいとき、呼吸だけに意識を置いてみるといい。怒りの感情がわいてきたとき、必ず呼吸が早くなっているはずだ。呼吸が早くやっている。自分は怒っているのだということを意識し、客観的に「私は怒っている」と心でつぶやいていると、そのうち呼吸が落ち着いてきて怒りも静まってくるだろう。  人は、習慣から、いつも外を見て暮らしています。  この習慣のせいで、自分の不幸の原因を常に外に求め、  他者に責任を押しつけ、外側の現実を変えることに専念します。  しかし、どんなに力がある人でも、  外の世界を自分の思いどおりにすることはできません。  そんなことにエネルギーを浪費するよりはむしろ、  自分自身の内側に目を向けるべきです。  内なる観察をとおしてこそ、自分自身を守ることができるのですから。  例えば、AさんがBさんに嫌なことを言われてみじめになったとき、ヴィパッサナー瞑想者ではないAさんは、その原因はBさんにあると思ってBさんを責めるだろう。しかし、ほかの人を傷つける言葉を使ったBさんは、その場で自分自身の心を汚し、みじめさを生み出している。Bさんに反発したAさんも同じように、自分自身の内側にみじめさを生んでいる。不幸の種はどちらにもまかれてしまうのだ。  人は何に対して反応するのだろうか? それは自分が作り上げた「私」というイメージに対して反応しているのである。相手に知ってもらった「私」のイメージと違うときに反発してしまう。これは自分自身だけでなく、「私の物」に対しても同じで、さらに「私の子ども」についてもよく思ってもらいたくなる。  これは人に対しても同じで、相手に何か嫌なことを言われたことを覚えていると、数年あとに再会したときに嫌な人というイメージを持ってしまう。逆にほめてくれた人にはいい印象を持ち続ける。本当に嫌な人とかいい人とは関係ないとしても、そのイメージ(色眼鏡)で見てしまうのだ。それぞれ自分の色眼鏡で世の中を見ている。自分と他者の色眼鏡は色が違うのに、その違いに対して対立してしまう。色眼鏡を外して見ることが必要なのに、人はみな、自分の色眼鏡が正しい世界だと勘違いしてしまうのだ。  ヴィパッサナーの修行を助け、苦悩から幸福へと導く10のパーラミー(徳)がある。自我を捨て何も所有しない「出家」、五戒を守る「道徳律」、心を浄化するための「努力」、頭ではなく体験を通して得る「智慧」、大勢のなかで修業する「忍耐」、戒律を守ることで得られる「真実」、修業を続けるという「決意」、我欲のない純粋な「慈悲」、どんな感覚に対してもバランスを保つ「平静さ」、自分のためだけではなくほかの人のために行なう「布施」。10日間のコースでは、これらのパーラミーを自分の中に育てる機会が与えられている。  講話が終わり、先生に質問する。今日の午後、鼻が詰まった感じがしたので、ヴィパッサナー瞑想は口の呼吸でもできるのか聞いてみた。答えは「かなり難しい」とのこと。鼻炎を持っている人や、風邪で鼻が詰まっている人は、なかなか集中できないようだ。もうひとつ、虫の音に対する体の反応については、広い意味でヴィパッサナーを捉えればそれも可能かもしれないが、今は考えないで、言われたことをやってくださいとのこと。当たり前である。ついつい、余計なことを考えて試したくなるのは、性格だからしかたない。  テントに戻り、虫の音に対する反応について考える。音に対する体の感覚は確実にあり、それを観察することは可能だとしても、ヴィパッサナー瞑想の目的は心の浄化であって、体の反応を観察することが目的ではない。であるならば、心の浄化に役立たないから、これまでの歴史の中でもやっている人が少ないのではないか? 感覚のゲームとしてはおもしろいかもしれないが、心の浄化を目的とするならば、やはり伝統的に指導されてきたことを続けるのがよさそうだ。  いよいよ明日は、目的としていた日常生活の中で生かせる特別な瞑想方法を習える。「聖なる沈黙」がとかれ、筆記具が使えるようになるので、これまで記憶したことを一気に書き出さなければいけない。7日目くらいから記憶があいまいになってきているので、なるべく早めにメモをとらなければ。 ■9月26日(土)  朝4時の鐘の音で目が覚める。とうとう修業10日目を迎えることになった。4時半から6時半まではいつもの瞑想と詠唱があり、途中で外に出て散歩していると、小さなアマガエルがいたので、ちょっと捕まえてみた。僕の好きなシュレーゲルアオガエルの子どもだった。金色のまぶたがかわいくて、しばらくコミュニケーションを楽しむ。  朝食をすませて休憩。今日のスケジュールを確認すると「メッターの日」と書いてあった。メッターというのが、日常に生かす特別な瞑想方法のようだ。  8時からグループ瞑想に入る。昨日の朝の段階で気持ちに区切りがついたので、気負いのない状態で瞑想に集中できた。すると終了の少し前くらいから、胴体がぐるぐる回るような感覚になった。いや、感覚というよりは体を揺さぶられている感じである。講話の中で、足を組んだ状態で跳ねたり、逆立ちして足をぶらぶらしている人の例があり、体が反応しているのだからそのまま観察しなさいとあったので、どんな状態になるのか、しばらく観察することにした。洗濯機の中に放り込まれたように、右回りにぐるんぐるんと動いている。少し目を開けて体を確認してみると、イメージしていたほど大きな動きではないが、たしかに体が動いていた。  グループ瞑想が終わり、9時からメッター・バーバナーという新しい瞑想の指導が始まった。いよいよ、これまでの修業を日常の中で生かす方法を習うことができる。ここに来る前に読んだ「歩く瞑想」などがあるのだろうか? これまでと同じように座って瞑想を始め、ゴエンカ氏の話に耳を傾ける。  アーナーパーナー瞑想で集中力を身につけ、ヴィパッサナー瞑想でありのままの状態を観察し、すべての苦しみから逃れ、自分を解放して幸福を得る修業をしてきた。これから日常に戻り、修業を生かすために、自分が手に入れた自由と幸福が、世界中の他者へもたらされるよう、愛と慈悲を持って祈り瞑想する。それがメッター・バーバナー(愛と慈しみの瞑想)である。  人の心は、いいことは自分の内側に溜めようとして、嫌なことはすぐ外に出そうとする性質を持っている。外に出された心の濁りは、ほかの人が持っている嫌悪の感情と反応し、その結果、他人を巻き込むことになる。心を浄化していくと、その無知による反応が消え、心の奥から愛と慈しみの感情が湧き出てくる。メッター・バーバナーは、この愛と慈しみの感情を外へ出す瞑想方法。ヴィパッサナーが自分の内側に向かう瞑想だとすると、メッター・バーバナーは自分の外側に向かう瞑想なのだ。  私は、知ってか知らずか  意識してか意識しないでか  その思いや言葉  あるいは行動で  私を傷つけた人々を許します。  私は、知ってか知らずか  意識してか意識しないでか  私の思いや言葉  あるいは行動で  私が傷つけた人々に許しを請います。  すべての生きとし生けるものが  苦悩から解放され  自由になれますように。  真の平安、真の調和、真の幸福を享受できますように。  生きとし生けるものと  私の得た恩恵を分かち合えますように。  私の安らぎを、私の調和を、分かち合えますように。  私のダンマを、分かち合えますように。  生きとし生けるものが、幸せでありますように。  安らかでありますように。  真の自由を得られますように。  幸せであれ、幸せであれ、幸せであれ。  約1時間半、ゴエンカ氏の言葉を聞きながら、ただじっと座って瞑想を続けていた。いったいこれは、どういう瞑想方法なのだろうか? 僕はてっきり、日常生活の動きの中で行なう瞑想方法を習えると思っていたが、けっきょく最後までじっと座っているだけだった。メッター・バーバナーの意義がわからず、自分の中にがっかり感だけが残ってしまった。  11時から「聖なる沈黙」がとかれる。食堂にはダーナ(寄付)のテーブルが用意され、ヴィパッサナー協会の資料などが掲示されている。「お疲れさまです」と声を掛け合い、ようやく相手の顔をはっきり見ることができた。  携帯電話を除く貴重品が返却され、筆記具を手にする。だれかと話してしまうとこれまでの記憶がすぐに消えてしまいそうだったので、A4の裏紙5枚に10日分のマス目を作り、指導内容、感想、試したこと、講話、質問の各項目に分けて、次々にマス目を埋めていく。幸い、夜の講話を要約した冊子があったので、それを参考にしながら記憶をたどっていく。  昼食のあと、先生に質問する。けっきょく、メッター・バーバナーという瞑想方法が言葉を唱えるものなのか、よくわからなかった。先生によると、言葉を心の中で唱えてもいいし、唱えなくてもそういう気持ちを持つだけでもいいという。体に起こる細かくて気持ちいい感覚を保ちながら、愛と慈しみの心でその感覚、バイブレーションを外側に放出するようなイメージらしい。  修業を終えて帰ったあと、朝と夕方に1時間ずつヴィパッサナー瞑想を行ない、最後に数分間、メッター・バーバナーを行なうこと。同じ部屋の同じ場所でメッター・バーバナーを繰り返しているうちに、部屋全体にいい気が満たされ、そこに入ってきた人が心地よく感じるという。それでも、これをどうやって日常に生かせばいいのか、まだ自分の中で整理ができなかった。最後まで、自分が習いたかった瞑想はこれではないという思いが残る。  休憩のあとに、グループ瞑想の時間になった。今日は3回のグループ瞑想があるほか、自由時間となっている。瞑想時間の終わりごろになって、体が右回りに動き始めた。今度は胴体だけでなく、頭の動き加わって、腕の感覚もいっしょに回転しているようだった。ヴィパッサナー瞑想が終わり、午前中に習ったメッター・バーバナーの瞑想に入る。すると、今度は洗濯機の回転が左回りになったが、ほどなくして瞑想時間は終了。  その後も記憶メモの書き出しをせっせと続ける。周囲は楽しそうに会話が弾んでいるが、とにかくこの体験を伝える役目があると言い聞かせて、マス目を埋めることに集中する。  18時からのグループ瞑想が始まった。しばらくすると、また洗濯機に放り込まれたように、体がぐるぐると回転を始めた。両手を離していたはずなのに、指を組んでいる感覚になる。少しずつ上下に動かしてみると、やはり指は組んでいないことがわかるが、感覚がつながって段差になっているのがわかった。  体がぐるぐる回るのをしばらく観察していたら、手のひらでぐるんぐるんとしっかりのぞるような感覚が3周くらいあった。はっきりした感覚でおもしろいと思っていたら、その感覚をきっかけに体の回転がぴたりと止まってしまった。ああ、終わってしまったと思っていたら、次に右の背中が筋肉痛のように痛くなってきた。集中していたので筋肉痛になったのかと思ったが、しだいに痛みが強くなってくる。もしかしたら、過去のサンカーラが浮かび上がっているのだろうか? そう思うと、凝固して鋭い不快な感覚というのに当てはまる。  ところが、グループ瞑想の終わりを告げるゴエンカ氏の言葉が流れてしまった。このまま途中でやめた場合、次に同じ感覚が出てくるのかわからない。明日の朝の瞑想時間はあるようだが、この機会を逃したらこの感覚を観察することはできそうもない。休憩時間に人が出入りしたり、次の講話が始まって気が散るかもしれないが、このまま瞑想を続けてみよう。  そうして背中の痛みを観察していたら、右の脇腹と腰のほうにその痛みが分離するではないか。そして分離した部分から、ゲートが開いたように楕円形の塊のようなしこりが現れた。そのしこりと痛みはしだいに広がり、心臓の動悸も早くなってくる。これまでも、右脇腹の奥のほうがチクッとすることがあったが、その痛みなのかもしれない。3つに分かれた感覚は、脇腹のほうはしだいに弱くなり、次に腰の痛みも消えていった。しこりのような部分が最後までチクチクしたが、少しずつ範囲が小さくなり、最後はチリチリと弱くなっていって、ほとんどの感覚は消えたようだ。  目を開けて時計を見ると、講話が始まって30分くらい過ぎたころだったから、1時間半の瞑想をしていたことになる。背中の痛みが過去のサンカーラだとしても、それがどんな記憶と結びついているのかはわからなかった。それでも、自分の中にあった心のしこりが消えたことは間違いなさそうだった。それがどの感情なのは、いずれわかるだろう。  感覚の観察をしながら、講話の内容も耳に入っていた。今夜はこれまでの復習のような内容で、瞑想方法の再確認が続いていた。  ヴィパッサナーの修業を行なうとき、五つの戒律を守ることから始まる。日常生活ではそれを守ることは難しいが、10日間コースに参加することで強制的にその戒律を守らされることになる。  シーラ(道徳律)の土台がしっかりしていると、サマーデイ(集中力、心のコントロール)を育むことができる。サマーデイが強くなるとパンニャー(智慧、心を浄化する洞察力)を得ることができる。パンニャーを得ると、心の奥深くを探る浄化の過程が始まるのだ。  もし、言葉を唱えながら呼吸を観察していたら、もっと早く集中できていたかもしれない。けれども言葉にはある種のヴァイブレーションがあるので、繰り返すことによって言葉のヴァイブレーションに包まれてくる。心の表面にはやすらぎを感じるかもしれないが、心の奥深くには汚れがとどまったままなのだ。だから、自分についての現実を探り、心を清らかにすることが目的であるならば、言葉を使うことはやめなければいけない。  一瞬一瞬、身体中に、感覚が現れては消え去っていく。心の奥深い部分、潜在意識は、それを感じとっている。感覚が現れては消え去っている、この無常性を理解しないならば、心は感覚に翻弄されて、渇望や嫌悪を生み続けるだろう。この習性を正すには、心の表面だけではなく、心の奥深い部分(感覚が生まれ、それに対する反応が起こる部分)にまで手を入れなければならない。  これはブッダが発見したことであったが、その前の時代から、解脱に至るには渇望、嫌悪、無知をほろぼさなければならないと気づいていた指導者はたくさんいた。けれども、ブッダ以前の賢者たちは、渇望や嫌悪は、感覚器官の対象になる外側に原因があると考えていた。ブッダは外側に原因はなく、自分の内側にある心の反応が原因であることを突き止めたのである。  過去のサンカーラが現れる前の段階では、全身がバイブレーションに包まれた状態にならなければいけない。これをバンガ、融解というらしい。そう言われてみると、手足だけで感覚を感じていたときには凝固して鋭い不快な感覚は得られなかったが、頭と胴体が渦巻きのように動き始めたあと、背中の痛みが現れて消えていった。  感覚と記憶が結びついて現れることもあれば、感覚だけが現れて消えていくこともあるという。ふと、一昨日の夜に感じた虫の感覚を思い出した。あの感覚を言葉にするなら、虫かどうか確認したくてむずむずした感じで、もどかしさだった。それはつまり、一昨日の朝から夕方まで、新しい瞑想方法に期待してはがっかりしていた自分の気持ちにそっくりではないか。まさに、むずむずしたもどかしさだった。その日に感じたことだったので、ものすごくリアルな感覚となって現れたのかもしれない。  原理がどうなっているのかわからないが、自分の体の奥深くに蓄積された何かが消え、自分の執着心がリアルな感覚となって現れた。それはまさに、不思議な体験だった。そのことに気づいてから、歩く瞑想ができなかったこだわりは、どこかに消えてしまった。それもやはり、自分を苦しめていた執着心だったのだ。最後の最後に、過去のサンカーラが浄化していくことを体験できた。やはり、このことを多くの人に伝えていきたい。  講話が終わったあと、食堂で22時まで話してもいいと言われたので、マス目を埋める作業を続ける。ようやく一段落してきたので、ほかの参加者とも言葉を交わすことができた。何度も参加している人に聞くと、僕が段階的に体験してきたこともすぐ理解してくれた。充実した気分で、テントに戻る。 ■9月27日(日)  16日の夕方にここに来て、11日目。とうとう最終日を迎えることになった。4時過ぎに起きて瞑想ホールに座っていると、しばらくして先生がやって来て、ゴエンカ氏の最後の講話が始まった。  ほかの人を傷つけない生活をおくること、  自分の心を制御する力を育むこと、  汚れから心を解き放ち、  慈しみと善意を育むことに反対する人はいないでしょう。  この修行法はだれでもが受けいれることができるものです。  その恩恵は、理論面を学ぶことによってではなく、  実践によってこそ得られるのです。  ここに来た人たちは、ダンマ(法)の種を持っていた人と、ここで初めて種を手にした人に分かれる。いずれにしても、せっかく種を手にしたのだから、大きな木に育ててみよう。種をまけば、やがて芽を出すだろう。幼い苗が動物に食べられないように、まず柵で囲ってたいせつに育てよう。その柵とは、五つの戒律のシーラ(道徳律)である。  生き物を殺さない  盗みを働かない  誤った性的行為を行なわない  嘘や悪い言葉を使わない  酒・麻薬の類を摂らない  苗を狙っている動物は、だれかの批判や何か宗教を信仰している人のことだ。信仰心の高い人に、ヴィパッサナー瞑想をやめるように言われたならば、五つの戒律を守っていることを伝えよう。柵の外側のことは関知しないならば、だれも反対する人はいないだろう。幼い苗木はしっかりと根を張り、幹が太くなり、大きく育っていく。そうなれば、もう世話の必要はない。やがてたくさんの実を結び、また新たな種が生まれるだろう。  ある資産家が自分の財産を譲り渡すために、4人の娘に5粒ずつの種を渡して「5年間、この種を守った人に財産を譲る」と言い渡した。長女は「そんな意味のないこと」と思って捨ててしまった。次女は「きっと貴重な種に違いない」と食べてしまった。三女はその種をたいせつに保管した。四女は種を畑に蒔き、何百倍の量にして蔵に保管した。結果、種を守るだけでなく、増やした四女に相続されたという。  もうひとつのたとえ話。フィルニーというインドのお菓子を作った母親が、子どもに食べさせようと思ったら、その子どもは「いらない、食べたくない」と言う。なぜか聞いてみると、いつも使っている自分の食器ではないからだという。母親はおいしいから食べてごらんと言うけれども、子どもは嫌だとだだをこねるばかり。しかたなく、いつもの食器にフィルニーを移し替えて差し出すが、今度は「石ころが入っているから食べない」と泣いてしまった。よく見ると、石ころに見えるのはカルダモンの粒だったのだ。「これは体にいいスパイスだから平気よ」と言い聞かせても、聞く耳を持たない。けっきょく手で振り払って、フィルニーは床にこぼれてしまった。器にこだわっていると、大事な中身を手にすることができない。  この「器」というのは、「言葉」である。ヴィパッサナー瞑想を修業するときに、さまざまな言葉が現れてきたが、あくまでもそれは体験を補助するためのものであって、絶対的な意味を持っているわけではない。言葉を頭で理解して、そこからイメージしてしまうと、現実との差に悩むことになる。客観的に自らの体を観察して、そこに起こる事実のみを受け入れていくことが大事なのだ。言葉にとらわれてはいけない。  10日間のコース中、頭で考えたことに対して、体が答えを出してくれることが何度もあった。これまでは、本を読んだり人の話を聞いたりして外から知識を得て、それを自分のものにしてきたわけだが、自分の体から物事を理解していくというアプローチは、初めての経験で非常に刺激的だった。  世界各地でヴィパッサナー瞑想を指導するゴエンカ氏は、ミャンマーで生まれたが、祖父の代にインドから移り住んでいる。家系は敬虔なヒンドゥー教徒である。実業家の息子として10代から商売を始めて大成功を収めるが、社会的地位や名誉を得た20代になってから心身症を患い、片頭痛に悩まされるようになる。ミャンマー中の名医もこの病気を治すことはできず、モルヒネで痛みを抑えるしかなかった。そのうち嘔吐や精神不安などの副作用が表れ、モルヒネ中毒になってしまう可能性が出てきた。医者は言う 「この病気の治療法は、私の知る限り、外国にもありません。ただ、頭痛を抑える鎮痛剤は見つかるかもしれません」  医者の助言に従って、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカ、日本と、各国の名医を訪ねて治療を受けたが、だれも病気を治すことはできなかった。傷心の思いで帰国すると、友人がヴィパッサナー瞑想の10日間コースのことを教えてくれた。  瞑想センターを訪ねると、その平和な雰囲気がすぐわかり、このコースに参加したいと思った。ゴエンカ氏が病気のことを伝えると、師匠のサヤジ・ウ・バ・キン氏に「そういうことなら来ないでください」と断られてしまった。  ダンマの目的は病気を治すことではありません。  病気の治療が目的なら病院へ行くことです。  ダンマの目的は人生の苦しみすべてを治療することです。  たしかに瞑想をすれば病気は治るかもしれません。  しかしそれは心を浄化するときの副産物のようなものです。  副産物を第一目標にしていると、  今日はよくなったかなとか、まだ治らないな、などと考えてしまいます。  病気の治療ではなく、心を解放するためにコースに参加してください。  その意味を理解したゴエンカ氏はあらためて参加を決めるが、保守的で敬虔なヒンドゥー教徒の家に生まれたので、異教徒(仏教)の指示に従うことは許されない。何か月も葛藤した結果、自分の信仰心は絶対に曲げないと決意して、ようやくコースに参加することになった。  そして自らの心を観察するうちに、事業に成功し、慈善活動を行ない、信心深く、言葉や行為に注意を払ってきた自分の心には、ヘビやサソリがはいまわっていたことを知る。病気はいつの間にか治り、その後の14年間、サヤジ・ウ・バ・キン氏の元で指導を受けて修業を続けることになる。  1969年に仕事でインドに行くことになり、故郷に帰った両親を訪ねるついでに、ヴィパッサナーのコースを開くことができた。コース参加者から「今度は友人を連れてきたい」と頼まれ、1度の予定が4回もコースを行なうことになった。ところが2年後、インドにいるときに師匠のサヤジ・ウ・バ・キンが亡くなってしまう。  サヤジ・ウ・バ・キンは、この瞑想方法はインドから伝えられたものだから、いつかインドの人たちにお返ししたいと言い続けていた。政治的な事情からサヤジ・ウ・バ・キンが海外へ出ることはなく、ゴエンカ氏がインドへ行くことが決まったときに、自分のことのように喜んでくれたという。  ウ・バ・キン師は、ミャンマーの古い言い伝えをよく話してました。  ブッダの時代から二十五世紀を経て、  ダンマはその発祥の地に戻り、  そこから世界に広まるだろう、と。  インドでゴエンカ氏を知る人は100人に満たなかったが、噂を聞きつけて、あらゆる階層、あらゆる宗教、あらゆる地域の人たちが世界中から集まってきた。原因なくして結果はない。偶然コースに参加する人はいないのだ。過去に何かよい行ないをした結果、ダンマの種を受け取る機会に恵まれたのかもしれない。あるいは、すでにダンマの種を持っていて、それを育てるためにやって来る人もいるだろう。種をもらいに来る人も、育てに来る人も、自ら幸せと恵みを手にして、苦しみから解放されるために、その種をたいせつに育てよう。  ゴエンカ氏から渡された種に対して、何かお礼をしたいという人がいる。けれども、ゴエンカ氏は金銭や物をいっさい受け取らない。その代わり、「私に対して、メッター・バーバナーでお礼の気持ちを伝えてください」と言うのだ。世界中のヴィパッサナー瞑想者が、これを伝えてくれているゴエンカ氏に感謝の気持ちを贈ることで、ゴエンカ氏も喜んでくれるという。  修業のところどころで、先生の前に呼ばれて状況を聞かれたあと、しばらくの時間、先生の前で瞑想する。きちんと瞑想しているかチェックされているような気がして緊張していたが、実は先生はこのときにメッター・バーバナーをしてくれていたというのだ。私たちの修業が実りをもたらすように、ヴァイブレーションを送ってくれていたのだった。  僕は、この瞑想方法を日常生活に生かせないと考えていたが、だれかと待ち合わせているときの数分間、仕事の手を休めている数分間というように、瞑想するチャンスはいくらでもあることを教えられた。そのとき、目をつぶっていると怪しく思われるので、目は開けたままでかまわないという。電車に乗っているときでも、瞑想ができるのではないだろうか。  6時半に講話が終わり、コースは完全に終了した。朝食をすませたあと、各自が分担して掃除を始める。テントの掃除をして、タープを下ろしてテントにかぶせておく。その後、僕はキッチンの掃除に加わる。  9時ごろから車に分乗してバス停に向かう。バスの待ち時間が30分くらいあったので、参加者と少し話しができた。やっと来たバスはけっこう人が乗っていて、20人近い大荷物の我々が乗りきれるか心配だった。ぎゅうぎゅう詰めになってなんとか乗り込み、JR茂原駅に向かう。  キャンプ姿の僕たちを見て、おばあちゃんが話しかける。 「どこかでキャンプでもしてたのかい?」 「ええ、瞑想の道場で修業をしてたんです」 「ああ、道場破りかい!」  スーパーなどが見えるようになると、現実の世界に引き戻される気がした。20分ほどして茂原駅に到着。駅に着いて流れ解散になったが、東京駅行きの快速電車の中で奉仕の人たちといっしょになる。  東京駅に着く少し前に、座りながら瞑想をしてみたら、たしかに細かい感覚が観察できることがわかった。これなら日常の中でも生かせそうだ。ところが、中央線に乗り換えるとき、すれ違う人にイライラしてしまう。愛と慈しみの心を手にしたと思ったのに……と反省する。  最寄りの武蔵境駅に降りると、浦島太郎のような感覚で、景色がぼんやりしている。12日間しか留守にしていないのに、不思議な気持ちだ。しかも、たくさんの人や車の動き、色とりどりの看板、信号機の音など、いろいろなものに感覚がイライラしてしまう。それだけ敏感になったのかもしれないが、それだけ鈍感だったというわけだ。自然のなかは落ち着くが、都会は刺激が多い。体の栄養は食物と環境によるそうだが、食べ物は意識していても、住環境は忘れがちだ。せめて部屋を片づけようと、また反省する。 ■おわりに  何も考えずに出かけた10日間コースは、本当に大変な修業だった。世の中の時間の流れとまったく異なる時が、千葉の山中では進んでいたように思う。修業の前は、毎日お酒を飲んでいたが、帰宅しても「飲みたい」という気持ちにはならなかった。試しにギネスビールを一杯飲んだものの、ひさしぶりのアルコールということもあり、飲んでしまったら感覚を観察することは難しく、そのまま寝てしまった。  寝る前と起きる前に横になりながら数分間、感覚を観察しなさいと言われていたので、7時半に起きて、寝たまま5分観察してみる。すると寝たままでも感覚が体を巡っていく。なかなかおもしろい。  メールチェックをしていると、「もっと瞑想しよう」と誘うように体の感覚がざわざわしてくる。ということで、寝起きに1時間の瞑想をしてみた。毎日朝夕に1時間ずつ行ないなさいという教えだったが、守らなければいけない戒律などを含めて、自然体で続けてみようと思う。  そんなに瞑想の時間がとれないと思うのだが、先輩たちは「毎日座らないと落ち着かない」と話す。瞑想をすることで、睡眠の質が高くなるので、今まで7時間寝ていた人なら6時間で、8時間寝ていた人なら7時間ですっきりするらしい。同じように朝に瞑想を行なうと、その日の仕事が効率よくはかどるそうだ。  10日間コースで何を行なったのか、自分がどう変化したのか、簡単に説明できないかと考えていた。例えば、どこかがチクッとかゆくなったときに、無意識のうちにそこをかいてしまうはずだ。これは潜在意識のレベルで反応しているわけだが、無意識にかくのを意識的にやめるようにする訓練をしていたことになる。かゆみに対して嫌な気持ちを持たずに観察していると、それはしだいに消えていく。これがヴィパッサナー瞑想のポイントかもしれない。  早起きが続いたので、初めて朝食担当をして子どもたちを見送ったときに気づいたことがある。子どもたちは寝るときに「おやすみ」を何度も言うクセがある。僕は一度返事をしたらもう答えなかったのだが、妻は何度でも優しく返事をしていた。僕の対応は、自分の心のクセ(言ったことに責任を持つこと)にこだわって反発していた。逆に妻は、愛と慈しみの気持ちで何度でも返事をしていたのだ。変わったことといえば、この気持ちだろうか。  修業の途中で、この体験を多くの人に伝えたいと考えたときに、いつか一緒に仕事をしたいと思っていたアーティストのマシマタケシさんの絵が浮かんだ。大人の絵本のようにするか、文章と挿し絵の組み合わせにするか、まったくの白紙状態だが……。 ※ここに 09/09/11「生命の力」の絵を入れてみました。  http://yahama.exblog.jp/11910478/ マシマタケシ http://lamian.ddo.jp/prema-maaru/ http://yahama.exblog.jp/  まだ面識はないものの、マシマさんは木の花ファミリーに滞在していたこともあり、その縁で何度かメールのやりとりがあった。ひさしぶりにマシマさんに連絡して、ヴィパッサナー瞑想に興味があれば、ぜひ手伝ってくださいとお願いしてみた。すると、ちょうど京都のヴィパッサナー瞑想に行くつもりだったというではないか。その不思議な縁に、お互いにびっくりしてしまった。マシマさんは現在、屋久島に住んでいる。かねてから屋久島に行きたいと思っていたので、これをきっかけに訪問できるかもしれない。  もうひとつ、ずっと心にひっかかっていた「歩く瞑想」のことがある。アルボムッレ・スマナサーラ長老が書いた『自分を変える気づきの瞑想法−やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法』(サンガ)のほか、関連書籍をまとめて注文し、ざっと目を通してみた。  歩く瞑想を行なう場合、動作や思考を言葉によって確認(ラベリング)していく。呼吸の観察もお腹のふくらみを「ふくらみ」「縮み」と言葉を繰り返す。ゴエンカ式ヴィパッサナーとは、ここで大きく異なっている。言葉で確認していくことでほかの思考が入る余地をなくしているようだ。実際に体験していないのがわからないが、ラベリングでは現在の状態を確認できても、過去のサンカーラが浄化されることはないように思えた。  さらにいろいろ調べてみると、ヴィパッサナー瞑想にはいくつかの流派があるようだった。以下のサイトがわかりやすかったので紹介しておく。 ・パオ式  ブッダの時代から変わらずに伝えられていると言われる、  ミャンマーに伝わる最も伝統的な方法。 http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-76.html ・マハシ式  ミャンマーのマハシ・セヤドーにより20世紀に開発された方法。 http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-77.html ・ゴエンカ式  ミャンマーに伝わる仏教の修行法を元に、  20世紀にS.N.ゴエンカにより開発された方法。 http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-78.html  ブッダが教えていたオリジナルの瞑想方法は、パオ式が受け継いでいるといわれているが、これは出家者向けの修業なので、ヴィパッサナー瞑想に進める段階に到達する人は少ないという。マハシ式は、気づきを頭のなかで言語化するところに特徴がある。僕が最初に興味を持った瞑想方法だ。  ゴエンカ氏は、2〜3の異なる瞑想方法を試してみるのはよいという。けれども、自分に合っているものが見つかったなら、それを修業することを勧めている。いくつもの修業を試し続けるのはよくない。  ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想は、たった10日間の体験なのに、本当に「心の手術」を行なえるプログラムになっている。難しい理論はともかく、この体験をぜひ多くの人に共有してもらいたい。  修業の最後に消えた心のしこりは、自然農の印税がもらえないこだわりだった。以前はそのことを考えただけで怒りがこみあげて出版社をうらんだものだが、その気持ちがなくなってしまった。帰宅後、アマゾンで在庫を見ると1〜2か月後の出荷になっており、自然農の全国集会で会った人に聞いても、出版社に在庫がないという。そのうち増刷して初版分の印税がもらえるかもしれない。  10月3〜4日に岐阜県恵那市で行なわれた自然農の全国実践者集会「妙なる畑の会」のテーマは、「真の私を生きる」だった。その内容もさることながら、川口さんの言葉のひとつひとつ、自然農の作業のひとつひとつが、そのままブッダの教えとヴィパッサナー瞑想の実践に当てはまることに気づいた。どの道を極めても、「生きる」というその答えはシンプルになるのである。  長い間のご愛読、ありがとうございました。  生きとし生けるものが幸せでありますように。 http://www.yu-min.jp/archives/2009/10/post_257.html